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檻を見る: 20世紀初頭の日本における私宅監置 (Seeing Cages: Home Confinement in Early Twentieth-Century Japan)

本文は以下の研究論文の日本語訳である:Kim, Yumi. “Seeing Cages: Home Confinement in Early Twentieth-Century Japan.” The Journal of Asian Studies 77.3 (2018): 635–658.

*引用の際は、原文のページ番号を参照のこと。また、本稿で言及される写真や図、本稿の参考文献リストも、原文を参照のこと。

ユミ・キム著「檻を見る: 20世紀初頭の日本における私宅監置」

共訳者:弘實紗季・シュミット堀佐知

論文要旨

本稿は、1918年に出版された「私宅監置」(home confinement) に関する精神病学の報告書に焦点を当てつつ、日本の「精神病者」の「視覚化」について考察する。この論文の主要な目的は、1918年報告書の著者である精神病学者の呉秀三と樫田五郎が、「ドキュメンタリー・モード」という、植民地政策という歴史的文脈で主に発展した表象戦略について考察することである。彼らは、この戦略を駆使し、報告書中の写真・スケッチ・家の間取り図などに科学的信憑性をもたせることに成功したのだ。さらに、このドキュメンタリー・モードという手法により、呉と樫田は、国会議員・官僚・患者家族の主張にも勝る、最も説得力のある見解―「精神病者」は同情や医療を受けるに値する集団である、という見識―を報告書の読者に提示した。「精神病者」を医学的に定義することに貢献した視覚技術を鑑みると、この概念は、20世紀初頭の日本にはまだ確立していなかったことが分かる。そして最も正確にそのような人々を診断・描写し、その統計を取ることができると自負した、様々な専門家たちの努力により、精神病を患った人々は、近代医学の再定義を獲得したのである。

*** 

1910年の夏、精神病学者 (訳者注: “psychiatrist” は現在「精神科医」と訳されるが、本稿では、明治当時の「精神病学者」を用いる) の斎藤玉男は東京を出発して群馬県宮城村を訪れ、そこで38歳の農夫の男性と会った (Kure and Kashida [1918] 2000, 15) 。その数か月前、その男性は、飲食店をぶらぶらと出入りし、客が飲んでいる酒や食べているつまみなどを奪うなどという、奇妙な行動を繰り返していたという。飲食店の主人が警察を呼び、警察官が容疑者の家族を呼び寄せると、男性は怒りを爆発させ、攻撃的な行為に及んだ。そのため、家族は、彼が正気を失い、保護と監視が必要になったとの結論に至った。しかし、その地域に精神病者の収容施設や病院はなく、どのみちその一家には、高額な入院費や医療費を払う余裕はなかった。そこで彼らは、江戸時代以来、農村の人々の多くが、精神不安定で暴力的な傾向のある親族に対して取ってきた「ある措置」を選択した。それは、屋内に木製の格子でできた檻のような空間を作り、そこに男性を閉じ込める、というものだった (図1を参照)。

「狂人」だとみなされた人々の私宅監置は、日本に限った習慣ではなかったが、20世紀に入ってからも、これほど患者の扶養・介護義務が法律的に家族に課せられいた国は珍しい。近代以前、世界の多くの地域では、精神不安定で、他人に危害を加える可能性のある家族を、屋内に設置した簡易牢に入れ、隔離してきた。18世紀の欧米諸国では、そのような囲いはpens, stalls, apartments, partitions と様々に呼ばれていた (Moran 2007; Shorter 1997, 3–4)。一方、韓国・中国・インドネシアの場合、「狂人」だとみなされた家族は、簡易牢に監禁するのではなく、家の中の柱や梁に鎖でつないだり、直接縛り付けたりしていたという (Ma 2015; Minas and Diatri 2016; Simonis 2010; Yoo 2016, 139)。日本の場合は、江戸時代以来、私宅監置が違法になる1950年まで、患者家族は地域の役所や警察に嘆願書を提出し、公的許可を得るという、複雑な手続きを行った上で、合法的に患者を自宅監禁していた (Hashimoto 2011; Itahara and Kuwabara 1998, 1999, 2000a, 2000b, 2001)。また、廃藩置県後に設置された各都道府県は、それぞれ私宅監置に関する独自の条例を制定し、江戸時代以来の家族・親戚による介護負担を、近代においても長引かせる結果になった。1900年になり、精神病者 (訳者注: 現在ではこの語は使われていないが、本稿では、明治時代の用語として使用する) の私宅監置を規制する最初の国家法「精神病者監護法」が国会で可決したにも関わらず、「家族責任の文化」(Suzuki 2003) に起因する社会的圧力のため、私宅監置の慣習は廃止には至らなかった。この「家族責任」という概念は、個人による反社会的行動や犯罪の責任を、その家族が背負うべきとする考え方である。明治政府は、「日本の家族」を社会秩序の砦として称揚することにより、家族責任の強制力を利用しただけでなく、そうすることにより、社会福祉制度を税金で負担することを回避しようとしたのである (Garon 1998, 2010)。

19世紀に入り、日本で誕生した最初の精神病学者たちは、主にドイツの精神病学に由来する、近代的な「狂気」への理解を元に、「患者は家族が家庭で看護するのが最適である」という考えを批判し、患者は精神病院で医師によって治療・介護されるべきだと主張しはじめた (注1)。この精神病学者たちにとって、家庭で監禁されている人々は「狂人」ではなく「精神病者」であった。「精神病」という新しい概念は、人の精神が脳の物理的な病変、遺伝性の心理的特性、またはその両方の影響を受けて起こる疾患を意味する。日本人は長い間、霊の憑依や、気の停滞が「狂気」の原因だと考えていたが(Hiruta 1985; Hyōdō  2008)、精神病学者たちは、この超自然的で霊的な説明を医学的診断に置き換えることを望んでいた。精神病者を「反社会的で危険な集団」だとする官僚や、患者の暴力的なふるまいに怯える同居家族とは異なり、精神病学者たちは、精神疾患に悩む人々も、他の病気の患者と同様に、医療行為や同情を与えられるべきだと主張した。そして、私宅監置を禁止し、精神病院を建設することを政府に要求したのである (注2)。

この目標を達成するため、精神病学者たちは、患者家庭で民族誌学的調査を行い、私宅監置の過酷な実情の記録をもとに、制度改革の必要性を行政に訴えることを考えた。東京帝国大学医学科の精神医学部長であった呉秀三は、1910年から1916年まで、12人の精神病学者から成るチームを率いて調査を実施し、私宅監置に関する統計、禁錮室の間取り図や写真などを収集した。調査対象となった地域は、関東を中心に、南は広島から北は青森まで、15都道府県にまで及んだ。1918年、呉と医学生・樫田五郎は、調査した364件の実例から抽出した100件余りのケースを報告書にまとめ、「精神病者私宅監置の実況およびその統計的観察」と題して、権威ある『東京医学会雑誌』に発表した (Kure and Kashida 1918a) (注3)。この報告書は、監護法改正に関わる立場にあった、医師・研究者・官僚・政治家・警察・国会議員に向けて書かれており、『東京医学会雑誌』に掲載された同年、さらに内務省衛生局から書籍としても出版され、他の政府機関に配布された (Kure and Kashida 1918b)。

呉の報告書は、視覚資料や統計などのデータを駆使し、同情と医療に値する「精神病者」という近代医学のカテゴリーが、日本で誕生するきっかけを作った、記念碑的業績である。そして、呉と樫田は、自分たちの主張の真実性を読者に納得させるべく、筆者 (翻訳者注:キムを指す) が呼ぶところの「ドキュメンタリー・モード」を用いて報告書を制作した。「ドキュメンタリー・モード」というのは、20世紀初頭、日本の内外で発達した表象形式で、それまでの社会科学分野で用いられた、統計学データの提示法などにヒントを得たものであった (Kawai 1989-94)。この表象戦略は、特に植民政策という歴史的文脈において、観察対象に「科学的客観性」を持たせるため、写真や地図などの視覚技術を積極的に取り入れた手法である。大英帝国からアメリカ西部まで、開拓者・測量者・科学者らは、監視・支配・知識獲得のツールとして、写真撮影技術を導入したのだが (Edwards 1992; Lydon 2005; J. Ryan 1997; S. Ryan 1996; Snyder 2002)、これは、ジェーン・ライドンが述べているように、写真技術が「あたかも物事の真実を映し取るかのような性質」をもつため、「人種・民族の身体的特徴や人間の行動を、正確に、客観的に、そして完全に分類できるという仮説」のもとに、国家や帝国に利用されるようになったことを表す。

日本においても、この新しい視覚技術は、植民地政策と密接に関係していた (Blaxell 2009; Kim 2016; Low 2003)。例えば、北海道の開拓地の場合、1870年前半の札幌での道路・庁舎の工事の写真映像記録が、「進歩的」で「近代的」な国家のイメージを、新しく確立するのに役立ったという (Kim 2015, 351)。また、台湾においても、写真家の松崎真司が1874年の台湾出兵にフォトジャーナリストとして同行したり (Kinoshita 2003)、人類学者の鳥居竜造と森丑之助が、1890年代から1900年代にかけて、先住民族の人体計量学写真を制作して脚光を浴びたりするなど (Barclay 2016; Wong 2009)、明治政府による1895年の台湾占領前後の様子が、カメラによって視覚的に記録されたのだ。早くから発展した日本映画、特に「実況映画」もしくは「実写映画」(後に「ドキュメンタリー映画」と呼ばれた) ジャンルは、事実的・視覚的な方法による植民地 (またはそれ以外の土地) の描写への関心の高さを物語っている。呉の報告書の中でも、『台湾実況紹介』(1907) や『韓国一週』(1908) (Nornes 2003, 12) などのドキュメンタリー映画を思わせる、「実況」という言葉が使われている。ドキュメンタリー・モードで発表された写真や記録映画は、見る者に「受動的で正確な真実の痕跡」という印象を与え、それによって、人々の実際の生活状態を表す証拠としての地位を獲得した。

呉の1918年報告書に挿入されている写真やスケッチを見ると、社会的に疎外されている人々や僻地の様子を視覚化することは、ドキュメンタリー・モードの手法そのものであるとともに、その発展をも促したことがわかる。農村部であれ都市部の貧困地域であれ、非行少年や精神病者の「実況」は、20世紀初頭には社会科学者・医師・民族学者・検査官・官僚・運動家などの監視下に置かれていた (Ambaras 2005; Kawai 1989–94; Silverberg 2006) のだが、このような状況下、呉は報告書の中で、精神病者の境遇を実際に目で見ることの重要性を強調した。そして、監置患者と禁錮室の写真を報告書に添付することにより、患者家族と地元の警察官以外の人々が、それまで目にすることのなかった、私宅監置の実態を露呈したのだ。呉は、報告書中の「多数の実例に添加せる幾多の写真図」が「惨憺たる監置室の光景、不完全なる民間療法の実景を真直に」語っていると述べ、「読者をして傷心に堪へざらしむるものある所以は、一に病者の保護・治療に関する法律並びに施設の大なる欠陥に原因するもの」だとしている。呉は、報告書の読者が、監置患者の悲惨な状況を目撃することにより、精神病者に対し憐憫の情を抱くであろうと確信し、それが私宅監置の禁止と公立精神病院の建設への第一歩になると考えた。彼は読者にこう歎願する。

吾人は博愛なる諸君子が人生に於ける最不幸なる病者の為めに同情を垂れ、制度・施設の改善・速成に対つて尽力あらんことを切望して已まざるものなり (Kure and Kashida [1918] 2000, 3-4) (注4)。

私宅監置された人々や、その家族への同情を喚起するための表象戦略として、呉が活用したドキュメンタリー・モードは、資料の主観性を隠蔽し、「明確な客観性」を構築することによって効果を発揮する。例えば、患者の「悲惨なる」状態への同情的な反応は、写真という媒体そのものからではなく、画像の選択・トリミング・フレーミング・配置・削除などの編集作業によって生み出される。つまり、ドキュメンタリー・モードは、観察者と被観察者の客観的距離を前提としつつも、実際には、報告書の読者が、説明文や画像に感情移入しやすいよう、工夫されているのだ。写真や図は、「冷静」で「客観的」であるかのように私宅監置を可視化する一方で、患者家族の介護労働、居住空間と禁錮室の往復、患者との知覚的 (視覚・聴覚・嗅覚) 接触など、精神病者と暮らす人々の日常生活と経験に読者を引き込んだ。このようにして、呉は読者の良心に訴えることに成功し、精神病者にも医療を与えたいという、精神病学者たちの願いに一歩近づくことを実現させたのである。

二人の日本人精神病学者が、ドキュメンタリー・モードの発展に寄与した実績を熟考することは、植民者による支配衝動・「一等国としての使命」という、明治時代の国際状勢の文脈の中で、彼らの貢献を考察するということでもある。さらに、そのような考察は、日本における精神学の発達史を、医学史全体の流れから切り離すのを防ぐと同時に、当時変化しつつあった「狂気」という概念が、20世紀初頭の国家・帝国建設という軍事行動の中に組み込まれた様子に目を向けることでもある (注5)。しかしながら、彼ら精神病学者たちは、新興の明治国家の単なる添え物ではなかった。これは優れた先行研究が残念ながら誤解してきたことだが、私宅監置は、日本という近代国家のエリート集団(精神病学者を含む)が、一般市民の日常生活に介入するための手段ではなかったのだ (Hyōdō  2008)。精神病学の分野は、国からの助成金を受けていたにも関わらず、時には精神病者の介護に関わる国の政策を批判する (呉の報告書も例外ではない) という貴重な役割をも果たした。つまり、ここで重要なのは、国に対して批判的な立場とった精神病学者の試みを、体制側の思惑と切り離して考えることである。そして、最後に付け加えるならば、精神病学の知に基づく「精神病者」像を形成するために活用された、ドキュメンタリー・モードという表象戦略と写真などの視覚技術は、日本医学史における定説―日本の「精神病者」という概念が、1870年代に西洋から輸入された、固定的で自明のカテゴリーだった、という考え―が間違いであったという事実を示唆する。日本人精神病学者たちは、民族誌的調査に基づく科学的な報告書を通じて、立法・警察・家族言説に見られるそれまでの「狂人」像に反論したのだが、これは、近代的な「精神病者」という概念が、当時まだ確立されておらず、最も正確に彼らを診断・描写し、統計学的に理解する資格のある専門家によって、精神疾患を患った人々に関するカテゴリーが、再定義・再形成されたことを示しているからである。

 

江戸時代の座敷牢から私宅監置へ

19世紀以前の日本において、精神を病んだ人々を「独自の社会集団」とする考え方は、まだ生まれていなかった。そのような人たちは「狂人」や「気狂い」などとみなされてはいたが、患者家族・役人・医師のいずれも、精神病者が特殊な部類に属する人間だとは思っていなかったのである。当時は、人が正気を失った場合、大抵その家族が最初に症状を診断し、地元の祈祷師や村の医者などを呼びに行き、「狂気」の原因と信じられた「霊の憑依」や「気の乱れ」などに対処したという (Hiruta 1985; Hyōdō 2008)。そして、精神異常が長期化した場合、その患者家族は、入牢 (じゅろう; 刑務所に収監すること)・溜預 (ためあずけ;溜と呼ばれる施設に収監すること)・入檻 (にゅうかん; 私宅監置と同義) の中から措置を選択したという (Itahara and Kuwabara 1998, 1999, 2000a, 2000b, 2001)。どれも刑罰に近い患者の扱いであるが、家庭で行われるのは、もちろん入檻だけである。

日本における私宅監置の起源は、 16世紀から17世紀に遡るとされるが、もともとは精神病者の監禁ではなく、反抗的な家族への躾や罰という形として始まった可能性が高い (注6)。最も典型的なのは、父親が「放蕩息子」を座敷牢に入れるパターンであった。そうすることにより、父親は息子が過去の悪行を反省し、心を入れ替えることを期待したのだ。例えば、下級武士の勝小吉 (1802~1850) という人物の自伝 (1843) によると、彼は家出後に父親に連れ戻されたのだが、家に入ると、座敷の真ん中に、三畳分ほどの大きさの檻が組み立てられていたという。勝は、「その中で自分の人生についてじっくり考えろ」と父親に言われ、実際、三年もの間、檻の中で暮らしたという (Katsu [1843] 1969, 60)。座敷牢に入れられた放蕩息子たちは、たいてい勝のような武士階級か裕福な庶民、つまり、大工を雇って檻を作り、息子の食事や世話をする使用人を雇う余裕のある家庭の出身だった (注7)。その結果、座敷牢はもともと、裕福でわがままな若者をなだめ、更生する空間と考えられていた。

やがて、正気を失った人の反社会的な行動に困っていた家族は、放蕩息子がそうされてきたように、精神病者を入檻するようになった。「狂人」だとみなされた人々を座敷牢に入れた記録の最も古いものは、18世紀半ばまで遡る。史学者の板原和子と桑原治雄によれば、江戸時代に座敷牢に監禁された精神病者は、親・祖父母・叔父・長男など、家庭内で高い地位にいた人々に限られていたという (注8)。それは、儒教的な上下関係を尊重する社会では、目上の家族を、牢獄や溜などの公的な拘置所に収容することが憚られたためである。そして、監禁が、家族構成員と村の長老の同意のもとに行われていることを証明するため、様々な複雑な手続きを踏んで初めて、家族は入檻の公的許可を得ることができたのだ。

近世の「狂人」に関する法律や規定の記録を見ると、少なくとも以下の五つの集団または組織が、患者を合法的に監禁するための手続きに関与したことが分かる:同居家族・親戚・五人組 (農家五軒を一組として連帯責任を課す江戸時代の制度)・町役人・奉行所。そして、時には医師の診断も必要とされた。1814年に江戸奉行所のための手引きとして制作された文書「乱心檻入見分」は、「乱心は親兄井親類之内両人極町役人より証文可取」としており、つまり、入檻許可を得るためは、まず「乱心」した人物の家族と親戚が連名でそれを宣言する必要があった (Hiruta 1985; Itahara and Kuwabara 1999, 95)。次に、その宣言の承認を得るために、患者の家族や親戚は、彼らと五人組代表者の署名がされた「入檻届」を町役人に提出し、さらに、それを受理した役人は、届のあった人物が、実際に「乱心」しているかどうか確認するための審査を行ったという。審査の過程で、役人は患者の住む住居の間取り図や、檻が設置される場所の見取り図などを、奉行所に提出した。奉行は檻入の許可には慎重であり、住居と患者の様子を十分役人に観察させた上で、私宅監置を許可したのである。このように、江戸時代は、「乱心者」の措置を決定する順番は家族・親戚から五人組、そして役人から奉行というように、庶民の生活を司っていた諸機関の権力序列とは正反対だったのである。

そして、役人は、一家離散につながるような家庭内不和を防ぐべく、「乱心者」の檻入には慎重にならざるをえなかった。私宅監置をめぐる家族の不和が、一家離散にまで発展すれば、その分の納税額が減り、社会的・経済的な不安定を招くからである。もちろん、家族にとっても、潤滑な遺産相続を妨げるような家庭内不和は、避けたいものであった。天順という質屋の主人で、神田に一家を構えていた人物の家族も、1793年に彼の入檻を江戸奉行所に願い届けたものの、申請の際、家庭内不和の起きる可能性を懸念していたことがうかがえる。入檻届の筆頭者である天順の母は、病のために息子が攻撃的になり、物を投げるだけでなく妻や従業員に手を挙げ、店の通常業務に支障をきたしていることを説明し、天順の監禁許可を請願しつつも、家督相続人には孫の名を書き、一家離散の可能性がないことを、役人に保証している (Itahara and Kuwabara 1998, 42–47)。このように、江戸時代における役人や患者家族の「乱心」に対する対応は、相続問題・家庭内暴力・日常生活への不安感に左右されることが多かったのだ。しかしながら、幕末から近代にかけて、精神病者の処置において、公的機関の関与は江戸時代よりも拡大した。警察などの国家・地方政府の機関が「狂人」とされる人々の移動を、それまで以上に制限・管理するようになったからである。

 

明治警察と議員が作り出した「精神病者」

警察官などの明治時代の公務員は、「精神病者」を法的・社会的なカテゴリーとして制定した最初の人々である。それまでの旧体制を覆し、社会的混乱と新しい文化をもたらした明治維新を機に、日本の近代家族は、精神病者を司る新しい公共機関や法律に適応することを余儀なくされた。そして、五人組の組頭や奉行に変わり、各都道府県の警察が新しく精神錯乱者の監視という役割を担ったのである。

警察は富国強兵や文明開化という使命の一環として、明治新政府の指導者らによって作られた、多くの行政機関の一つである。1874年、内務省の管轄下として設立された東京警視庁は、治安維持を司る機関として、新首都の日常生活を、明治以前には見られなかった方法で管理し始めた。警視庁の治安維持の管轄は東京のみであったが、すぐに他県の警視制度の規範となり、同様の管理体制が地方にも広がった。新たに採用された約6000人の巡視員には、商業活動の監視や人口統計調査から、規律道徳の維持や各居住区ごとの住民情報の収集まで、幅広い種類の任務が与えられた。これほどまでに広範囲に市民を管理する公安機関は、かつて日本に存在しなかった。警察は、民衆の社会不安の芽を予め摘んでおくかのように、一般市民の慣習や行動を記録・処罰するなど、保護者的統制主義の対策を実行した (Umemori 2002)。

1870年代から、民衆を保護する立場の公的機関として、精神病者の私宅監置に関わる手続きも、東京警視庁の管轄下におかれた。新政権発足後の不安定な時代において、公安を維持することは、警視庁の最大の関心となり、巡査官には、精神病の発作や犯罪など、様々な類の混乱や暴動を見分ける能力が必要とされた。1874年、警察庁は、精神病者の家族に対し、患者を厳重に監視することを命じる条例を制定し、また、1878年5月には、「瘋癲人看護及び不良の子弟等教戒」を目的とした、初めての実質的な指令を布達した:

[瘋癲人を] やむを得ず私宅に於て鎖錮せんとする者は明治9 (1876) 年3月10日元警視庁に於いて区戸長へ相達候懲治檻入願手続に照準し其事由を詳記し親族連印の上瘋癲人は医師の診断書添へ所轄警視分署へ願出認許を可受此旨布達候事」(『警視類聚規則 1879』, 432) (注9)。

この指令が示すように、江戸時代においてその対処が親の権限のみに任されていた「不良の子弟」の処遇は、明治時代には警察の管轄になり、そして、精神錯乱を患う人々の地位と、患者の監禁を表す用語にも変化が起きた。江戸時代によく使われていた「乱心者」は新しく「瘋癲人」に置き換えられた。「瘋癲人」という語は、いわゆる明治の「旧刑法」(1882) 設立以前の『新律綱領』(1870) に含まれる公式文書が初出である (Kanekawa 2012)。「狂人」や「狂女」のような一般的な用語である「乱心者」と異なり、「瘋癲人」は「精神病者」や「精神錯乱者」のような、医学・法学用語のニュアンスをもつ。

東京以外の自治体もこれに倣い、それぞれ「瘋癲人」を取り締まる条例を発布した。それらの条例は、自治体によって細かい差異があったものの、多くは私宅監置を行うための実質的な必要条件や、手続きに関する詳細を規定するものであった。千葉県も1889年に十三条の法令を発布し、「瘋癲人」とされる県民を、私宅監置の有無を問わず、警察署に登録し、公共の場を訪れる際は保護者同伴であることを県民に義務づけた (Hashimoto 2011, 31)。また、禁錮室に入る日光の量や換気などの、衛生的な基準も課された。鉄鎖や綱などで患者を縛り付けるような強制的な拘束は禁止されており、可燃物を禁錮室のそばに置かない、などの火災予防の文言も法令に含まれている。これらの規制に従わない場合、患者家族には罰金が課せられた。地方自治体の条例内容は、互いに似通っていたものの、精神病者や私宅監置の内容、私宅監置または施設収容の手続きなどの説明文に使われる用語や詳細は、精神病者に関する国家法が制定されて初めて統一された。

1900年、帝国議会は、精神病者の処遇に関わる日本初の国家法である「精神病者監護法」を可決した。この法律は、江戸時代以来の、家族・家庭・共同体が中心となった、精神病者の処遇に関わる決定権を、法が定める「監護義務者」(たいていは家長) に移行させ、その人物に患者の法的・経済的責任を負わせることを規定した。つまり、江戸時代の場合、家族であれば誰でも、「乱心者」の監禁や解放を奉行所に請願することができたが、この監護法は、精神病者の私宅監置もしくは公立・私立の精神病院収容に関する決定権を、すべて監護義務者に一任したのである。そして、有能な監護義務者候補がいない場合は、市または県の行政長官が、その代理を務めることになった。

「精神病者監護法」は、患者の違法監置 (行政に無許可で、もしくは偽造文書によって許可を取った私宅監置) が行われた場合、罰金または刑罰が課されることを制定した。そして、この法律を通して、監護義務者という役割の重要性を提唱したのは、警察・患者家族・精神病学者のいずれでもなく、日本に近代的な法制度を整備することを目指した、法学者と国会議員たちであった。日本の民法典を起草した三人のうちの一人である、法学博士の梅謙次郎は、精神病者の「取締」に関する補正案を提唱し、すでに民法で定められている精神病者の財産の保護だけでなく、「身体と人権の保護」まで患者の権利を拡張しようとした (Utsunomiya 2010)。その結果、「精神病者監護法」は、民法で規定されている患者の様々な権利を、その家族による後見の範疇に再び組み込むこととなった。そして、家庭が社会の主要な構成単位であるという考え方が強化されるとともに、精神病者は、家庭こそが保護と監視を提供する自然な環境であると前提され、家族の管理下に置かれた。つまり、監護法は、すでに民法によって定められていた、家父長の絶対的権威と家庭の社会秩序の保護者としての機能というイデオロギーを、さらに強化したのだと言える。

しかしながら、明治政府の掲げる、近代家族をめぐる思想的・法的言説に根差した監護法は、私宅監置の実践に大きな変化をもたらしたわけではない。例えば、私宅監置の許可決定権が、村の役人から警察に移行したにも関わらず、屋内に禁錮室を設置するための許可手続きは、どの地域でも以前と変わらなかったという。家庭内で精神病者の世話する人々にとって、監護法によって詳細に規定された私宅監置の決まりは、無視はしないまでも、実際の日常生活に及ぼす影響は微々たるものであり、また、患者の世話にはさまざまな人々の手を必要としたため、監護義務者が家長であるかどうかは、あまり重要ではなかった。また、監禁理由も、江戸時代と明治時代ではさほど変わりはなかった (注10)。物を投げる、通行人を殴る、近所の人々の物を盗む、放火する、などの患者の攻撃的なふるまいを確実に抑えるために、その経済的・精神的負担にも関わらず、家族たちは精神病者を拘束せざるをえなかったのだ。そのような暴力と混乱を経験した患者家族は、自分たちなりに、人が正気を失うことの意味と、私宅監置という対処法を見つけるに至ったのだが、それに異議を唱えたのが、明治の精神病学者たちなのであった。

 

精神病学者の登場

呉秀三のような初代の精神病学者たちは、精神病者が同情と医療を与える価値のある人々であることを、国会議員に訴えることにより、法律や社会通念上の、患者に対する偏見を改善しようと努力した。法学者たちが精神病者に関わる法令の標準化を目指し、患者家族が病人の予測不可能で奇妙な行動を制御することに苦心する中、精神病学者たちが考えていたのは、患者には呉の言う「実践的」で医学的根拠のある治療が必要だということであった。患者の処遇に関する権威を誇示する精神病学者たちの動きは、ある意味、警察官や患者家族ではなく、高度な知識を身に着けた彼らこそが、精神病の診断と管理を行うべきだ、という宣言なのである (注11)。精神病学の分野は、近代医学と公衆衛生の制度を設立することにより、国民の健康状態の改善を図ろうとする、明治政府の取り組みの一環として成立した。1870年代前半から、中央政府と地方自治体は、医師国家試験制度を設立し、数多くの医学大学院を創設した。また、法律においても、西洋医学が、伝統的な東洋医学以上に権威のあるものとして位置づけられた。京都・大阪・名古屋・東京などの、大都市の大学や病院ではドイツ人医師が雇われるようになり、1879年、エルヴィン・バエルツは東京医学校 (のちの東京帝国大学医学部) で精神病学の講義を担当する最初の医師となった。政府はまた、医学生たちがドイツやオーストリアに留学し、精神病学を学ぶことを奨励し、1883年、文部省は、東京医学校の卒業したばかりの榊俶 (さかき・はじめ) をドイツに派遣した。榊はベルリンで精神病学を学ぶとともに、ドイツとオーストリアの国立精神病者収容施設の視察も行った。1887年に帰国した榊は、帝国大学医科大学精神病学科の初代学科長、そして「東京府癲狂院」設立の指導者に任命された。そして、榊の後継者が、1918年の私宅監置に関する報告書の筆頭著者・呉秀三だった。

呉の報告書は、社会的・地理的に周縁的な人々や土地 (植民地・被植民者を含む) を、写真や映像などの最新のマス表象技術で視覚的・数値的に記録した資料の一環であり、20世紀初頭における、日本の技術的進歩を象徴するものである。この報告書を作成するため、呉と仲間の精神病学者たちは、私宅監置の実例が集中する、地方の農村に注目した。明治初期以来、農村地域は「後進的」「未発達」であるとみなされることが一般的で、精神病学者やその他の西洋医学の専門家など、都会の新興エリート層は、そのような土地が、有害な迷信や習慣の掃き溜めであろうと考えていた。例えば、東京で医師として働いていた高橋新吉は、動物の霊の憑依が狂気の原因だとする考えは、「無知な人が多い、貧しくて遅れた土地」に見られ、「知識が発達した」東京のような都会では珍しい、と述べている (Burns 2012, 95)。東京を拠点とする精神病学者や医学生を、私宅監置が最も盛んに行われていた農村地域に派遣することにより、呉は都市の新興エリート層が思い描く、「地方の文明化」という、明治日本に広く見られた近代事業に参画したのだと言える。

しかしながら、呉にとって、地方の文明化という使命を果たすには、私宅監置という患者家族の残酷な行動を責めるよりも、ほかの専門技術者や役人に協力を訴えることの方が先決であった (注12)。そこで、「客観的」で「冷静」な印象を与えながら、聞く者の同情を誘うような言説が、この事業の成功の鍵となったのだ。報告書の「客観性」を演出するために、呉と彼の共著者でもある医学生・樫田五郎は、当時の医学や人類学の論文に見られるような、ある種の視覚的な「一貫性」と「均一性」を作り出した。彼らは、私宅監置されている人々が所狭そうに座っている写真 (図2参照) や禁錮室の引き戸・蝶番・南京錠などの構造を強調する写真、そして患者の肩から上を中心に据えた肖像写真のようなものなど、さまざまな画像を駆使して報告書を作成した。

このような多様な画像が、すべての私宅監置に共通の悲惨な状況を表象しているかのように、呉と樫田は全ての写真を同じ大きさに揃えている。例えば、図3の写真では、監禁されている男性が、木製の柵の中からこちら側を覗いている。見る者の目は、上下に走る四本の角材と二本の貫 (ぬき) に囲まれた、男性の顔にすぐさま向けられるだろう。写真の中心に据えられた男性の視線は、戦慄を覚えるほど直接的な印象である。しかし、この画像の元となったと思われる、未発表の写真 (図4を参照)を見ると、我々の目は男性の顔 (写真の中央からずれている) よりも、縦横の角材が交差する右下の部分に注目するであろう。呉と樫田 (または彼らの助手) は、図4の未加工写真を、報告書の他の写真と同じ大きさにトリミングしただけでなく、両端が柵に平行になるよう切りそろえることにより、ラフな印象を与えうる傾斜を取り除いたのである。しかし、加工前・加工後どちらの写真も、報告書に挿入されたほかの多くの画像と同様、見るものと見られるものの間の乖離を強調するものだ。図3・4の男性が、手で柵を軽く握り、体と平行に走る木材の隙間に、顔を押し付けられている様子は、彼が本当に柵の隙間をすり抜けることができないという現実を、我々に認識させる。檻のような空間に閉じ込めた患者の光景は、一人の精神病学者をして、動物園のようだ、と言わしめたという (Kure and Kashida [1918] 2000, 20)。確かに、座敷牢の柵は、明治時代に新設された動物園に見られた、太い鉄格子の檻を連想させる。しかし、実際には、動物園の囲いの多くは、生き物との「直接感」や「至近感」を演出する、ガラス張り、もしくは細い鉄格子の囲いに程なく変更された (Miller 2013)。木製の柵の場合、我々が監禁されている人々との間に感じる「直接感」は、鉄格子でもガラス張りでもない、曖昧なものであると言える。

報告書の中では、写真以外の視覚資料 (間取り図や手書きのスケッチなど) も、均一性と明確さを維持するために標準化された。精神病学者の斎藤玉男が1910年に発表した私宅監置の報告書 (図5) で取り上げているケースは、1918年の呉の報告書でも再び扱われているが (図6)、この二つを比較すると、呉と樫田は、斎藤の提示した家の間取り図を、筆跡・線の太さ・記号などが報告書全体で統一されるよう、新たに作成したことが分かる (Saitō  [1910] 2010–11)。斎藤の報告書の中では、現場を視察した医師もしくは警察官によって、間取り図の内容に大幅な違いが見られる。住居内のどこに禁錮室が設置されているかを示すだけのものもあれば、台所・便所・戸・部屋・納戸などの屋内の構造や、家屋周辺の野原・川・畑などの正確な位置や大きさまで詳細されているものもある。斎藤の報告書に添付された間取り図を書き直すことで、呉は、斎藤という一個人の痕跡 (彼の筆跡や独特なスケッチなど) を消したのだ (注13)。

目に映る光景を手でスケッチする作業は、時に写真よりも明確な情報を提供するものであり、数人の精神病学者よって収集された写真の一部は、素描に変換された。上記の斎藤の報告書に添付された禁錮室の外観写真も、手描きの絵に変更された例である。当然、スケッチも写真と同様の機能が意図されており、その証拠に、呉は写真をもとに描いたスケッチに「写真」(文字通り「真実を写すもの」) というキャプションをつけている。呉も樫田も、写真を素描に変更した理由を特に説明していないが、スケッチが画質の悪い写真より資料として優れているのは明らかである。たとえば、斎藤のスケッチ (図5) の場合も、同じ建物の写真の、前景に当たる部分を取り除き、図の中心が、小さな橋の手前のでこぼこの地面ではなく、家の出窓になるように仕立ててある。光の当たらない部分に影を作り、何が写っているのか判然としないような写真に比べ、素描は無駄な要素も少なく、実際、斎藤のスケッチを見れば、どこに橋やダムや出窓や柱があるのかすぐに分かる。屋根や軒のせいで、ぼやけたり影がさしたりしている部分を取り除くことにより、手描きの絵は、写真画像の情報をさらに明確にしてくれるのだ。その結果、写真と違って、家屋の外観はすっきりとし、雨戸も歪曲せず、出窓の外に取り付けられた柵も古びていないかのようである。優しい光と影のコントラストで農村の家屋を描く、素朴な絵は、報告書の読者になじみのない僻地を美化してくれる機能もあるようだ。

呉の報告書に見られる、視覚的な均一性は「冷静」で「客観的」な印象を見る者にもたらすと同時に、画像と文章の構成・配置は読者の感情移入を促す仕掛けになっている。視覚資料の明確さが向上したことにより、報告書の読者は、文章・写真・素描・間取りなどをパズルのように組み合わせ、一つ一つの事例を、実際の私宅監置の様子を観察しているかのように吟味できるのである。母親を殴り、家の中にあるものを壊して、私宅監置されるに至った、県立専門学校の元教官である42歳の女性の場合、住居の詳細な間取り図・説明文と一緒に、禁錮室の写真が表示されたている (図7)。この組み合わせの中で、間取り図は、説明文の内容と、女性が監禁されていた空間を可視化する役目を果たしている (Kure and Kashida [1918] 2000, 44-45)。間取り図の中の三角形は、禁錮室の写真を撮った人物の立ち位置を示しており、読者は、観察者の視線に自分の視線を重ね、間取り図・写真・説明文を交互に目で追いながら、この案件を検証することができる。まず、間取り図を見ると、女性の監置室が母屋の東側に隣接した離れの中にあったことが分かり、説明文を読むと、その床には尿で汚れ、腐敗した二畳分の畳が敷かれていたことが分かる。資料写真に写っているのは、監置室の柵 (その寸法は説明文に詳細されている) の外観と、奥の窓から射し込む日の光である。本件に関する、さまざまな視覚・言語情報を組み合わせることにより、報告書の読者は、この患者家族の居住空間における監置室という場の文脈を、深く読み取ることができるのだ。

画像と文章による情報の組み合わせは、女性の監置室が、家族の居住空間からは完全に隔離されておらず、家庭の私的・公的空間の両方に繋がっている様子を浮き彫りにしている。「共同体の中の家庭」「家庭の中にある監置室」というように、共同体・家庭・監置室という三つの別々の空間が、簡易牢を核とした三重の円を描き、入子状に存在しているのだ。そして、三つの空間は、単に物理的に隣接しているというだけでなく、家族や近所の人々が具体的に経験する日常的な行動―患者の世話・三つの空間の往来・患者との知覚的接触―によっても繋がっている。この女性の家族は、監置室に出入りし、彼女の食事や入浴の世話をしたり、一緒に時間を過ごしたりしていた。別の例では、監禁されていた男性の妻と子は、毎朝彼の体を拭き、監置室を掃除し、数日おきに散歩に連れて行き、週二回は風呂に入れ、清潔な衣服を着せていたという (Kure and Kashida [1918] 2000, 8)。この男性の家の間取りと、木製の柵の写真を照らし合わせると、檻状の囲いの側面に戸がついており、それが開いている様子が見える。この戸は、人々が出入りするたび、一日に何度も開いたり閉じたりしたのである。

監護義務者の多くが患者の父・夫・息子であったにも関わらず、監置室に出入りして、患者の世話をするのは主に女性たちであった。家族を殴って監置されることになった、長野の男性の場合も、父親がその監護義務者に任命されたが、この事例を視察した医学生が指摘するように、実際に患者の世話をしていたのは、彼の義理の姉 (妹) であった。この女性は、患者の汚れた衣服と布団を天日干しして、夜の掃除の際に、また監置室に持ってくるなどの介護労働をしていたという (Kure and Kashida [1918] 2000, 67)。家族以外の人が、世話を分担する場合もある。別の長野の例では、私宅監置されていた退役兵の男性が「不潔症」を患っていたが、その老母には、息子に一日三回の食事を与える以上の体力はなかったため、月に二度、人を雇って入浴と掃除をしてもらっていた。離婚後に精神を病み、町を徘徊していた長野の女性の場合も、監護義務者は、義理の兄 (弟) であった。しかし、実際彼女の世話の大部分を行ったのは、実妹であり、月に三度、監置室を掃除するなどしていたという (69–70)。患者の病が精神的なものであれ、肉体的なものであれ、家庭内での介護労働は、そのほとんどが女性に任されるのが常なのである。

個々の事例に関する写真・スケッチ・間取り・説明文を提示し、悲惨な私宅監置の実情を警告することにより、この報告書は、監置室の光景・音・臭気が、柵や南京錠の隙間から流れ出てくるかのような感覚を、見るものに与える。そのような、患者との知覚的な接触は、監置室と居住空間との境界を曖昧にする。私宅監置を視察していた医学生や精神病学者の多くは、換気の悪さのために増大した排泄物の悪臭や、女性患者の月経血で汚れた衣類や寝具など、監置室の恐ろしく不衛生な状況を嘆いた。極端な例では、痴呆を患う人が、監置室の内部や自分の衣類に自分の排泄物をなすりつけたり、自分の排泄物で遊んだりする場合もある。便所は、地面に穴を掘っただけのものが多く、これも悪臭の原因となった。そして、患者の発する叫び声や歌声は、同居家族だけでなく、近所の人々の耳にも届くのが普通であった。

間取り図を見ると、母屋に隣接する蔵や畑が描かれていることがある。これは、その一家が農業従事者であることを示しており、私宅監置は、農業と介護という二種類の肉体労働をこなさなければならない家族にとって、非常に大きな負担であり、患者にとっても、自分の受ける世話の質を左右する、深刻な問題であった。農家の多くは、働けるものがみな一丸となり、農作業に従事することで、やっと生計を立てており、病人の付き添いに労力を回す余裕はなかった。監置者の世話は重労働で、毎日同じ時間に食事を与えたり、定期的に入浴させたりできる家族は少なかった。患者を入浴させるためには、家に備え付けの風呂を使う・監置室に盥を運んでくる・公衆浴場に連れていく、という選択肢があったが、いずれの場合も、作業には複数の人間の協力が必要であり、同居家族だけでなく、親戚や近所の人々、または警察に助けを求める事もあったという。入浴中は、興奮状態であろうとなかろうと、患者の手足を縛り、患者自身または世話をする者が怪我をしないようにしなければならなかった。また、その大変さから、患者を風呂に入れることを完全に諦めてしまった家族も多い (Kure and Kashida [1918] 2000, 10)。患者の衣類・寝具・部屋をできるだけ清潔に保つことは必要であったものの、呉の報告書によれば、手間と時間があまりにもかかるため、滅多に監置室を掃除しない家族も、たくさん存在したという。精神病者の多くは、頻繁に自分の衣類を破ったり、寝具を汚したりしたため、せっかく掃除や洗濯をしても、一日か二日で元通りになってしまうのである。農作業の手を止めて、患者の介護をする余裕がない家族が多い中、監置室と便所の掃除や患者の清拭を、月に一度以上は行わない家族も少なくなく、数年に一度しかしない、という家族すらいたという。

呉以下の精神病学者たちは、患者家族の経済状態と、介護の質の反相関関係を強調することにより、家族による世話が最適だという考え方に異議を唱えた。医学生と精神病学者たちは、調査回答の中で、貧困層の人々は休みなく働かねばならず、家族に病人が出ても十分な看護や世話はできない、と述べている。生糸と繭の行商人の妻である長野県の女性は、家族に暴行を働いた事で監禁され、その世話には母親と子供たちがあたった。しかし、精神病学者の氏家信 (うじいえ・まこと) が書いているように、養蚕業を営む家族の生活は非常に忙しく、患者の介護に十分な時間を割くことは不可能であった (Kure and Kashida [1918] 2000, 25)。同じように、黒沢良臣 (くろさわ・よしたみ) が1912年に視察した福島県の36歳の男性の家族も、農業に従事していたため、まともな世話をすることはできなかったという (52-53)。呉は報告書の中で、家族が監置患者への保護義務を放棄していることを嘆き、このような惨状に対し、同情を同情を抱かずにはいられないとする一方で、こうも記している:「吾人は之を以て家人が故意に此の如き軽薄・冷酷の待遇を患者に加ふるなりとは解釈せず、之を十分善意に解釈せんと欲するものなり。蓋し人々同情の念・測憶の心なきはあらず。況んや親子・兄弟・夫婦の間に於てをや」(129)。呉の見解では、家族が患者の世話を怠るのは、薄情によるものではなく、農作業などに追われて、介護にまで手が回らないためであるとし、また、もともと貧しい生活を送っていた人々は、家族に精神病者が出たため、さらなる経済的困窮に陥ったと述べている。

つまり、呉の意図は、私的監置の悲惨な状況を、患者家族の責任だと非難することではなく、彼らには、精神病者を自宅で介護するような余裕がないということを主張することであった。また、彼は、自分の排泄物で遊ぶような、不潔行為を行う痴呆患者の対処に困窮している家族についても、言及している:

被監置者の病症として不潔症・拒絶症等あることは此の如き病の看護に経験なき家人をして其為すべき所を知らず、困難心労の余遂に此に至ることもあるを省顧せざるべからず」(Kure and Kashida [1918] 2000, 128)。

 呉は、精神病者の世話が行き届かないのは、患者家族に十分な物質的・感情的な余裕がなかったためであると主張したが、報告書を見ると、家族による責任放棄も、ある程度実在したことがわかる。そのような人々は、苦しい介護生活の中、状況が将来的に改善する希望もないため、無関心・疲労・屈辱感に駆られ、精神病を患った家族の人間性を否定するようになってしまったのである。

 

おわりに

精神病学者たちの私宅監置への反対運動は、病院を拠点とした公益事業拡大を目指す「精神病院法」の可決を後押しした。この法案可決の結果、法務大臣は、地方自治体に精神病者収容施設の建設を要請する権限を得た。そして、中央政府が、施設建設費の半分と、支払能力の低い患者の、収容費用の6分の1を負担することを約束し、貧しい患者も入院できるような制度を設立した。しかし、呉らの要望に反し、この法案だけでは、精神病者が病院で医療や保護を受けられる、全国規模の制度は実現しなかった。また、この法案は、私宅監置を廃止したわけでもなく (注14)、代わりに、「都市では施設収容」「地方では主に私宅監置」という、二重の介護制度を生んだ (Suzuki 2012)。20世紀初頭以来、病院の数が急増し始めていた都市部の事情とは違い、1900年に成立した「精神病者監護法」のおかげで、家族による介護労働と医療費用の負担が制度化していた地方においては、公費で病院を建設することに意欲を示す役人などいなかったのである。1935年の時点で、一部の病床を公益事業に割り当てている精神病院があったのは、23都道府県のみであった。しかも、その多くは公立の精神病者収容施設ではなく、私営の病院であり、割り当てられたベッド数も、微々たるものであった。

また、東京や大阪などの都市では、精神病者として登録されている人々の約半数が入院するようになったのに対し、地方では私宅監置が相変わらず当たり前に行われ、多くの農村地域における精神病者の入院率は、1%以下であった。ある史学者が述べているように、精神病法は、日本の農村地帯に関して言えば、何の変化ももたらさなかった (Suzuki 2012, 149)。私宅監置を完全に違法とする動きは、厚生省が1950年に可決した「精神衛生法」を待たねばならなかったのである。

しかしながら、呉が作成した報告書の価値は、私的監置の廃止という元来の意図が達成されたか否か、という点以外の面からも評価されるべきである。この報告書の大きな貢献の一つは、ドキュメンタリ・モードという表象戦略を、日本に定着させるきっかけを作ったことである。そして、ドキュメンタリー・モードは、20世紀の変わり目に、日本における西洋由来の科学と医学を権威化するプロセスの、重要な一部を担ったのだ。この報告書は、ある主張に、さらなる信憑性や説得力を持たせるための表象戦略の仕組みを提示しており、呉は、その戦略によって、精神病者が、偏見や放置の代わりに、哀れみ・医療・介護を受けるべき人々だ、という信念を主張した。彼は、精神病者への同情を喚起するようなメッセージを伝達し、読者の良心に訴えかけることにより、呉自身の精神病学者としての見解を、法学者・官僚・患者家族にまで広げようと試みた。国家・帝国・国民などの近代概念を構築する上で、情報の記録・提示方法が果たす重要な役割については、さまざまな分野の専門家が早くから認識していたが、呉の報告書は、視覚的な形式の工夫によって、読者の感情移入を鼓舞するという、新しい表象戦略方法を提示した。

また、近代日本の精神病者に関する視覚資料のアーカイブ化が始まったのは、呉の報告書発表を契機とする。その資料収集の成果は、東京初の公立精神病者収容施設 (旧名・東京府癲狂院) の記録である『東京府立松沢病院の歴史と患者の統計』」(1928) や、衣笠貞之助監督の無声映画「狂つた一頁」(1926) にも見られる。フランスにおける「ヒステリー」の歴史にも言えることであるが、写真などの視覚技術は、単に被写体の姿を映しとるだけでなく、新しい部類の病気を構築し、それまでに存在しなかった類の精神病者に対する見方や、そのような人々を収容する空間 (施設や監置室) を生み出すという役割を果たした (Didi-Huberman 2003; Gilman 1976)。

呉とその仲間たちは、当時としては革新的な精神病者像を提供したといえる。その背景に、彼らのような医師が働ける精神病院の数を増やすという意図があったことは否めないものの、医師たちは、警察官や法学者などとは違い、私宅監置をされている患者とその家族たちの「人間性」に光を当てたのだ。当時、いかなる分野の研究であれ、精神病者の家族の苦境に誠実に目を向けたのは、呉の報告書のみである。患者を施設に預ける経済力がなく、自宅で介護するしかない家族は、身体的に拘束を受けている患者と同様に、精神的・感情的・肉体的な重圧感による拘束を受けていたのだ。医師たちにとって、精神病者たちを治療に値する患者だとみなすことは、彼らの人間性を認識することであった。20世紀の100年間、日本の精神病院における治療が、何割かの患者とその家族に、私宅監置と同様の苦しみを与える結果になったことは否めない。しかしながら、精神病者の扱いを「囚人」から「患者」に改善しようとする、呉たちの日本初の運動を支えた動機の一つは、精神病者たちが (たとえ差別や偏見を受けようとも) れっきとした人間であることには変わらないという事実を、社会全般に知ってもらうことであったのだ。

 

脚注

(1)精神病学者の多くが私宅監置の慣習を非難したものの、中には、患者を肉親以外の家庭で介護するなど、別の家庭介護の方法を提唱する者もいた (Burns 2017)。

(2)(訳者注:キムの脚注では東京府癲狂院の設立は1875年となっているが、これは1879年の間違いであると思われる。1875年は京都府癲狂院設立の年である) 。日本で最初の公立精神病者収容施設は京都に設立され、東京癲狂院は1875年 [ママ] に設立された。日本最古の私立精神病者収容施設も、このころ東京に建てられた。精神病院に関する詳細は以下を参照:Okada Yasuo (1981), Omata (2000), and Kanekawa (2009, 2012)。

(3)当時作成された一連の報告書の原本はほとんど現存しておらず、例外として斎藤玉男が群馬県 (Saitō [1910] 2010–11) と山梨県 (Saitō [1911] 2010–11) で行った調査報告が残っている。

(4)医学者であり、衆議院議員でもあった山根正次は、1911年3月20日に開かれた、公立の精神病者施設に関する委員会会議の際、斎藤玉男による群馬県での1910年の調査 (のち呉の報告書にも転載) について言及した。その中で、山根は、他の委員らに、斎藤の報告書に所収されている写真を見るよう、繰り返し訴えるとともに、それらの画像が医療改革の必要性を物語っていると主張した (Utsunomiya 2009)。

(5)注目すべき例外は、風祭元 (かざまつり・はじめ) の2012年論文である。風祭によれば、20世紀初期、東京帝国大学の医師らが、日本統治下にあったソウルの京城帝国大学で精神医学の授業を行い、そのように外地への知の伝達が行われていたという。また、別の最近の研究では、ナショナリズムや西洋帝国主義という文脈において、社会経験と文化上の思想が、いかに精神病概念の形成に影響を与えるか、という問題が分析されている (Watarai 2003; Burns 2012; Satō  2013)。

(6)江戸以前にも精神病者の監禁が行われたことを示唆する資料が、軍学書『甲陽軍鑑』(1616) やイエズス会が編纂した『日葡辞書』(1603) などに散見される。江戸時代には、私宅監置は、「指籠」(さしこ; または差籠、指子) や「内折」(うちおり) と呼ばていた (Hiruta 1985, 60)。

(7)江戸文学作品には、散文・韻文ともに、座敷牢への言及が頻繁にみられる。よく知られている例は、上田秋成の『雨月物語』(1776) 所収の「吉備津の釜」である (Nakamura Masaichi 2010)。岡田甫 (1976~1978) の川柳も参照のこと。20世紀文学の例もある(Shimazaki [1929] 1987)。

(8)板原和子と桑原治雄 (1998, 1999, 2000a, 2000b, 2001)は、 家庭不和への恐れが、私宅監置を行うか否かの決定に影響したという先行研究の論を、さらに発展させている (Yamazaki 1932)。

(9)条例172条。史学者の先行研究によれば、警察法の強化は、1884年の相馬事件 (大名・相馬誠胤が不法な私宅監置されたことに端を発した騒動) が契機となった可能性があるという (Burns 2000, 42; Hashimoto 2011; Utsunomiya 2009)。

(10)いくらかの相違点もあった。例えば、明治時代に「狂人」であるとみなされた人々の場合、天皇への不敬行為や役所への不法侵入を行った者だけが監置された。呉と樫田(1918a)の報告書所収の「監置理由の統計」を参照。

(11)呉の目的は、警察官が医者のようにふるまうのを防ぐことであった。1900年の監護法の下、警察官は、精神病者の性格・行動・病歴・病気の原因・資産・監禁方法などに関する情報を収集していた。

(12)私宅監置の事例に加えて、呉の報告書には、寺院や温泉地などにおける除霊や祈祷の例も含まれていた (Harding, Iwata, and Yoshinaga 2015; Hashimoto 2010; Nakamura 2013)。

(13)私宅監置例の視察を行った精神病学者の多くは、警察が保管していた精神病者の記録をもとに間取りを描いた。地域の警官たちは精神病学者に協力的であることが多かった (Ujiie 1942)。

(14)1930年代、精神病学者や社会運動家の中には、私宅監置を支持するものもいた。彼らにとって、病院に頼らず、家族が自宅で患者を介護するのは、西洋諸国の制度にも優る、日本独自の慣習であった (Aoki 1937)。

 

 

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弘實紗季
山口県出身。ポートランド州立大学の日本語学・日本文学の修士課程に在籍。現在、池田理代子の『ベルサイユのばら」におけるジェンダー表象に関する修士論文を執筆中。趣味はお茶と韓国ドラマ鑑賞。

Saki Hirozane
Ms. Hirozane is from Yamaguchi Prefecture, Japan, and currently pursuing her Master’s degree in Japanese Language and Literature at Portland State University. Her MA thesis analyzes representations of gender in Riyoko Ikeda’s manga, The Rose of Versailles. In her spare time, she enjoys practicing tea ceremony and watching Korean dramas.