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ディレクターによる序文 (日本語)

『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』第一号「家族と労働」刊行によせて

 

シュミット堀佐知(ダートマス大学)
松村ウェンディー(カリフォルニア大学サンディエゴ校)

I.はじめに

「スプリングボード・ジャパン」は、日本と日本に関わる人文学・社会科学研究に興味のある人々の、多目的オープンアクセス・フォーラムとして、2021年夏に立ち上げられた。今後、利用者のフィードバックに耳を傾け、情報公開・情報交換・ディスカッション・ネットワーキングなど、様々な活用方法を検討・提供することを目指している。

80年代に開発され、現在までに急激な進化をとげたインターネットは、言うまでもなく、知識の探索に革命をもたらした。2021年の今、サーチエンジンのアルゴリズムは、膨大なデジタル情報の中から、我々が必要とする事項を (大抵) 瞬時に抽出・提供してくれる。しかしながら、サーチエンジンの検索だけで手に入る情報は、内容の深さ・正確さが不十分なことも多い。また、必要な情報が専門的・周縁的であればあるほど、検索にヒットする確率が下がる。人文学・社会科学の諸分野においても、日本に関連する多様な専門的知識が、日々蓄積されているものの、言語の壁や、(有料コンテンツの場合) 所属機関の研究助成の差などにより、多くの研究成果は、非常に限定的な輪の中でしか享受されないのが現状である。教育機関の「企業化」が進むと言われる現在、すでに教員の間に存在する「持つ者」と「持たざる者」の格差が、この先さらに拡大してしまうことが危惧される。「スプリングボード・ジャパン」は、このような背景のもと、構想されたプロジェクトなのである。

「スプリングボード」とは、器械体操などで使われる跳躍台のことを指す。この多目的オープンアクセス・フォーラムが目指すのは、日本に関心のある様々な人々が、言語・文化・所属機関・肩書・専門分野などの垣根を飛び越え、知を共有し、対話を始めるための契機となることである。また、「スプリングボード・ジャパン」は、ウェブ媒体という柔軟さを生かし、利用者やゲスト編集者の声を反映しながら、有機的に発展する空間を目指す。既存の研究成果 (学術論文・学術書の書評) の翻訳 (日⇔英) を中心に、未発表のコラム・インタビュー・対談・パフォーマンス・アートなど、多様なコンテンツは、日本語と英語で提供していく予定である。

II.『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』第一号「家族と労働」

このフォーラムの主要コンテンツは『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』という、共通のテーマをもつ学術論文と研究書書評の翻訳をまとめたものである。その記念すべき第一号のテーマは、「スプリングボード・ジャパン」代表者が現在取り組んでいる研究に関連する「家族と労働」となった。

英語から日本語に翻訳された学術論文は:

  1. ユミ・キム 「檻を見る: 20世紀初頭の日本における私宅監置」(2018).
  2. ジヨン・ソ 「境界へのまなざし: 植民地朝鮮の日本人家庭における朝鮮人家政婦たち」(2019).

の二篇である。

ユミ・キム氏は、この論文の中で、明治政府が提唱した「近代家族」の理想像や「治安維持」などの名目のもと、精神病患者の私宅監置と介護を担わされた家族の苦悩を描き、そして、そのような患者と家族を、近代医学の力で救おうと立ち上がった、精神科医・呉秀三の功績を、多方面から分析している。呉らは、その報告書の中で、精神医学という新しい科学分野の信憑性を強調するため、写真などの近代技術を取り入れた表象戦略を活用した。キム氏はこれを「ドキュメンタリー・モード」と名づけ、紹介している。氏が、繰り返し強調しているように、「ドキュメンタリー・モード」の起源は、帝国日本が、当時の植民地政策の妥当性を主張すべく作り出した、科学的表象戦略にある。しかしながら、この論考は、政府の思惑―患者家族による献身の美化と精神病者の私宅監置と自宅介護の継続―が、精神科医の高度専門知識とは完全には一致しなかったという、興味深い近代史の一瞬間をとらえている。

ジヨン・ソ氏は、日本統治下の朝鮮半島に移住した日本人家族と、入植者の家庭で家政婦として働いた現地女性たちの、パラドキシカルな「親密性」が、コロニアル・ポストコロニアル文学の中で、いかに表象されているのかを考察している。ソ氏は、ガヤトリ・スピヴァクの「我々が、テクストに埋没したサバルタンの声を完璧に発掘し、それを理解できると考えたり、サバルタンの行為に主体性を付与することが、あたかも自明で単純な作業だと思い込むことは、植民地的な慢心に他ならない」という指摘に同意しつつも、コロニアル文学における朝鮮人家政婦の表象 (そして、そのような人々が、韓国の国粋的な史学史から抹消されてきた事実) に目を向けることの意義を示唆している。それは、日本人に雇われた朝鮮人家政婦の労働を、単純に「入植者の家庭を維持・再生産するための搾取」だとは断定できないという事情に関連する。引揚者である日本人作家の作品に描かれてるように、入植者家族と朝鮮人家政婦が、互いに (または入植者が一方的に) 抱いた「親密感」は、二者間の境界線を曖昧にすると同時に、それを補強する役割をも担った。そのような「親密感」の描写は、日本帝国内、またはその隣接空間内での、入植者を主体とする文脈において、日本人が現地の人々に抱いた感情 (とその否定) や、そのような感情に基づく関係性を理解することへの重要性を示唆している。

    今回英訳された日本語の論文は以下の二篇である。

 

  1. 畑恵里子「落窪の君の<家>の獲得」(2004).
  2. 長島雄毅「近世後期京都における商家奉公人の雇用と再生産」(2015).

畑氏は、継子話をモチーフにした平安中期の作品『落窪物語』における、「卑近な労働」「高度な技能」「聖性を帯びた行為」という多面性を持つ「縫製」に着目している。『落窪物語』は、長年、継母からの虐待に耐え忍んだ主人公が、源家の娘であり藤原家の正室としての地位と名誉を獲得するストーリであるが、畑氏の考察は、その社会上昇過程において、「縫製」­が果たす役割の重要性を明らかにするものである。この論考は、主人公の針仕事が、継母によるいじめの手段としてのみ捉えられがちだった先行研究に、新たな視点をもたらしてくれている。

長島氏の論文は、歴史人口統計学の視点から、近世京都の商家・遠藤家に奉公した、さまざまな労働者の地理的・社会的移動を分析し、近世京都における奉公人の雇用に見られる傾向を、これまで以上に明確なものにした。単一の商家 (遠藤家) に焦点を当て、奉公契約書や家系図などの史料を駆使することにより、この論考は、労働人口推移に関する先行研究を補完するものとなっている。まず、長島氏は、「奉公人」の中にも様々な職種 (「手代」「下男」「下女」など) があり、そのような待遇差 (と労働者の性別) によって、雇用形態と奉公期間が大きく違っていたことを指摘する。次に、長島氏は、先行研究の「都市の労働市場における二重構造」論を補完する形で、遠藤家の本家と別家が、奉公人の雇用に関わって、深いつながりを維持していることを明らかにするとともに、京都の労働市場を把握するためには、移動の背景や奉公の種類・質などとの関係から、より詳細な検討を要するということを論じている。

    「家族」「労働」「ジェンダー」「社会・経済階級」に関わる研究書書評の翻訳は、全部で九篇である。日本語に訳されたものは:
  1. アリソン・トキタ「書評 ジェラルド・グローマー著『瞽女: 伝統的日本における女性、音楽演奏、視覚障害』」(2018).
  2. ユイ・スズキ「書評 カレン・M・ゲルハート編『近代以前の日本における女性・儀式・儀式道具』」(2019).
  3. サミュエル・ペリー「書評 ナヨン・エイミー・クォン著『親密な帝国: 朝鮮と日本における協働と植民地近代』 」(2018).
  4. マーク・マクレランド「書評 アリソン・アレクシー&エマ・E・クック編『親密な日本: 親近感と葛藤のエスノグラフィー』」(2018).
  5. サリー・ヘイスティングス「育児と家事という垣根を越えて: 日本におけるフェミニズムの最新研究」(2019).
    であり、また、5は以下の三冊の研究書を扱った書評エッセイである:

    • ジュリア・C・ブロック・加野彩子・ジェームズ・ウェルカー編『日本のフェミニズムを再考する』(2019).
    • 加野彩子著『日本のフェミニスト論争: 性・愛・労働をめぐる闘争の一世紀』(2018).
    • アン・ザカリアス=ウォルシュ著『私たちの組合・私たちの自己: 日本のフェミニスト労働組合の勃興』(2017).
    最後に、日本語から英語に翻訳された書評は、以下の四篇である。|
  1. 吉海直人「書評 古田正幸著『平安物語における侍女の研究』」(2014).
  2. 斧出節子「書評 巽真理子著『イクメンじゃない「父親の子育て」: 現代日本における父親の男らしさと〈ケアとしての子育て〉』」(2018).
  3. 澤口恵一「書評 前田尚子著『地域産業の盛衰と家族変動の社会学: 産業時間・世代・家族戦略』」(2018).
  4. 羽渕一代「書評 知念渉著『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー: ヤンキーの生活世界を描き出す』」(2018).

時代、分野、メソッドを異にする、13篇の日本研究の成果を、どのように享受・解釈するかは、読者の関心や専門などにより、異なってくるのは当然である。しかし、これらの多くに共通するのは、さまざまな形の労力や献身を提供する、女性たちの存在である。「労働者」と「家族」の中間的存在である平安女房、女房の労働を司り、家庭を取り仕切る貴族女性、安産や往生を願って巡礼や布施を行う中世の庶民・貴族女性、盲目の旅芸人である瞽女、精神病の家族を監置・介護する母や妻、植民地朝鮮の日本人家庭で家事や感情労働を提供する朝鮮人家政婦、戦後日本で「無償労働」と賃金労働のダブル・シフトと「男女平等」理念のギャップに悩む妻など、色々な境遇で生きる女性たちが、マクロ・マイクロ両方の文脈において、自己・家族・共同体のために奮闘する姿が見えてくる。

さらに言えば、多様な研究論文や書評を、一冊の学術誌のような形式でまとめることにより、『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』は、研究者が無意識のうちに陥っているかもしれない行動―それぞれの専門領域を縄張りのように防御したり、専門を同じくする仲間と住む、狭い世界に貢献することばかりに躍起になったりすること―に光を当てることができるかもしれないのだ。

『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』第一号の中に頻出する、「家族/親族」「労働」「女性」などの概念は、それぞれの研究者が、専門領域における長年の知的探求を経た上で解釈しているもので、それらの意味は、当然、分野や個々の研究者によって微妙に変わってくる。と言うことは、『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』の読者が、通常同じ媒体空間を共有することの少ない、隣接分野の研究や書評を併せて読むことで、新たな知的探求心が生まれる可能性もある。

例えば、近世後期から幕末の京都において、商家の本家と別家の同族的関係が、奉公人である男性・女性労働者の雇用形態を決定したとする長島氏の論と、日本統治下の朝鮮で入植者家庭の家政婦として働いた「オモニー」という、植民地史から無視されてきた女性労働者の存在に光を当てるソ氏の論考を、並列して考察することで、別々に読んだ場合には思い浮かばないような問いが生まれるかもしれない。

ソ氏の研究を通して、長島氏の論を考察する読者は、どのような要因が、京都とその周辺という地理的条件や、同族的関係という枠組みを越え、搾取的側面をもつ「商家への奉公」という雇用形態を維持・再生産したのだろうか、という疑問を抱くかもしれない。逆に、長島氏の研究を通して、ソ氏の論を考察すれば、日本人入植者が朝鮮人女性を家政婦として雇用する際に、地理的条件や人間関係がどのような影響を及ぼしたのか、また、現地女性を入植者家庭の住み込み使用人として雇うという行動の裏には、「安価な労働力の獲得」以外に、どんな目的があったのだろうか、という疑問が湧いてくるかもしれない。

これはあくまでも一例にすぎないが、このように、普段接点がないかのように思われている分野の研究成果を読み比べることは、刺激的で有意義な対話や学術探求の契機になりうる。このプロジェクトを通じて、多様な論考を翻訳・提供し、多くの利用者の間で、様々な会話やコミュニケーションを生み、さらには、日本研究に関わる人々が、ともすると固定化しがちな専門分野・研究領域の壁を飛び越えるための手助けをすることが『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』の目的なのである。

III. 『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』第一号編集にあたって

『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』第一号の編集プロセスについて、簡単に説明したい。まず、コンテンツの選考であるが、所収論文・書評の最終リストが出来上がるまでに、数週間を要した。「家族と労働」「日本」という主題に関連した人文学・社会科学の研究論文と研究書書評の中で、(1) J-Stage、 JSTOR、Project Museいずれかのウェブ媒体に転載されているもの、(2) 編集者 (今回は堀と松村が担当) が多くの人々に読まれるべきだと判断したもの、(3) 比較的新しいもの、を抽出し、さらに時代・学術分野・トピックの多様性を考慮しつつ、所収候補をリストアップした。次に、発表媒体となった学術雑誌の、編集部・筆者両方からの翻訳許可を申請した。しかし、コンタクトをとっても返事をもらえないケースも少なくなく、最終リストは、編集者の意向と、いくつかの外的制約の交渉の結果により、決定されたと言える。

次に、翻訳作業について説明する。まず、翻訳協力者のリクルートであるが、これも決して簡単なプロセスではなかった。最終的には、(1) 200~500ドルの謝礼 (原文の長さに比例)、(2) 翻訳への細かい添削指導、(3) メンタリング (言語学習法・博士課程への進学・就職活動などに関するアドバイス) という、三つの「特典」を報酬として、仕事を引き受け入れてくれる大学院生・若手研究者 (計6人) に出会えた。翻訳作業に参加してくれた6人の方々は、おそらく、論文や書評を「読んで理解する」ことと、それを「もともとその言語で書かれた論文・書評として読める (かそれに近い) レベルの自然な翻訳をする」ことのギャップに驚いたのではないかと思う。(世に、あまり質のよくない翻訳―公共の場にある注意書きから家電のマニュアルまで―がまかり通っているのも、翻訳に対する期待度が低かったり、翻訳者の責任感が希薄だったり、翻訳の質をチェックするようなシステムがないことが原因だと思われる)。もちろん、添削にも多くの時間と労力を必要とするので、そのような手間を、「長期的な投資」としてお互いが納得しあっていなければ、編集者と翻訳協力者の互恵関係は成り立たないことを実感した。

また、学術的な文章を正確に翻訳するためには、「言語レベルの翻訳」以外の作業、つまり、書かれている内容を正しく理解するための「リサーチ」が必要となってくる。英語であれ日本語であれ、翻訳者が言語Aで書かれた原文を読んだ際に、「手に取るように」分かってはじめて、それを言語Bにいったん変換し、さらなる編集・校閲作業を経てやっと、言語Bで書かれた論文・書評として通用する翻訳が完成する。もし、翻訳者による原文の内容理解が、少しでもあやふやであれば、他の人が読んだ際、「文法的には正しいが、内容が理解できない文章」ができあがってしまうのである。今回、自分の担当した翻訳作業と、協力者の翻訳添削のために、グーグル・JSTOR・J-Stage・ウィキペディア・ジャパンナレッジ・国立国会図書館デジタルコレクション、青空文庫などのデジタルリソースを駆使し、それでも手に入らない情報は、所属大学のILLサービスで本や論文を取り寄せて、事実確認や引用文の原文チェックを行った。このようなリサーチのテクニックも、大学院生の方々に、伝授していきたいと考えている。

今回、この翻訳・添削という協働作業を通して、大学院生の方々とやりとりしたことは、大きな喜びであった。特に、日本から留学生として渡米している学生の方々は、日本とアメリカの教育制度の違いや、アカデミアの慣習の違いなど、ここで一人前の研究者になるために、飛び越えるべきハードルがたくさんある。このプロジェクトが何かしらの役に立てれば、と願う次第である。

IV. 「スプリングボード・ジャパン」のこれから

このプロジェクトは、かつて同じ大学で教鞭をとっていた、二人の日本研究者が、ふとしたきっかけで思いついた、(おそらく傍目には無謀にしか見えない) 企画である。とりあえず、パイロットとして、『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』の第一号を、二人の個人研究費でまかなうことに決め、まったくの手探り状態からスタートし、現在にいたる。これから、利用者の意見を取り入れながら、日本研究に貢献できるフォーラムを真摯に作っていきたい。そして、多くの方々が、『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』に協力していくれることを願っている。(ちなみに、韓国語・中国語で書かれた、優れた日本研究論文を、日本語に翻訳してくださる方も大歓迎である)。

幸い、『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』の第二号「沖縄: 表象の向こう側」と第三号「身体に隣接するもの」の翻訳・編集費用と、このプロジェクトの可能性について話し合うシンポジウムへの助成を、ダートマス大学レスリー人文学センターから受けることができた。ここで、レスリーセンターへの、深い感謝の意を表明したい。

また、日ごろから、このプロジェクトをサポートしてくれている家族 (ペットを含む)・同僚・友人、そして、論文・書評の翻訳を許可してくれたジャーナル編集部と筆者の方々、翻訳作業に参加してくれた方々、素敵なウェブサイトを作ってくれたロイ・シュミット、ロゴとイラストをデザインしてくれた百々花・シュミットにも、心から感謝する。(はからずも、第一号のテーマ「家族と労働」を体現してしまった)。