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境界へのまなざし: 植民地朝鮮の日本人家庭における朝鮮人家政婦たち (The Gaze on the Threshold: Korean Housemaids of Japanese Families in Colonial Korea)

本文は以下の研究論文の日本語訳である: Suh, Jiyoung. “The Gaze on the Threshold: Korean Housemaids of Japanese Families in Colonial Korea.” positions: east asia cultures critique 27.3 (2019): 437–468.

*引用の際は、原文のページ番号を参照のこと

ジヨン・ソ著「境界へのまなざし:植民地朝鮮の日本人家庭における朝鮮人家政婦たち」

翻訳者:シュミット堀佐知

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植民地都市の家政婦たち

日本統治下の朝鮮半島に生まれ、思春期を朝鮮で過ごした日本人作家の梶山季之 (1930~1975) は、1964年発表の歴史小説 『京城昭和十一年』 の中で、阿久津という日本人記者が、知り合いの日本人をソウルの日本村に訪ねた際、現地出身の住み込み家政婦に出迎えられるという場面を描いている (Kajiyama 1964: 14)。また、小林勝 (1927~1971) も短編「無名の旗手たち」(1962) の中で、日本人の入植者家庭に現地出身の家政婦を置くことが、当時いかに (ソウル以外の地方都市においてさえ) 当たり前だったかということを回顧している (Kobayashi [1962] 2007: 113-14)。このように、日本統治時代、多くの現地女性が、入植者の家庭に家政婦として就業した。彼女たちは、近代初期に朝鮮半島の農村から都市部に移住した女性労働者が担った「家庭労働の商品化」と「植民者・被植民者間の境界を越境する労働」を同時に表象しているという点で、注目に値する。

労働者人口に占める家政婦の割合の高さは、とくに都市部において顕著で、1930年代、ソウルとその近郊で働く女性労働者のうち、家政婦の数はエンターテイナーと女工のそれを上回った (注1)。先述の通り、家政婦たちは朝鮮人家庭だけでなく、日本からの植民者たちにも雇用されていたが、1920年代から40年代の記録によると、この傾向は、家政婦を雇う入植者が、自分の家庭を切り盛りする必要があったか否かには関わらず、見られた現象である。これは、朝鮮人の労働賃金が安かった上、現地の使用人を雇うことが、植民者の虚栄心を満たすという、重要な役割も担っていたからである (Kobayashi [1962] 2007:114: Takasaki 2006:176)。

このような統計の存在にも関わらず、朝鮮人家政婦の存在は韓国・朝鮮に関わるこれまでの学術研究ではほとんど扱われてこなかった (注2)。韓国における機関的な、もしくはナショナリズムに加担した史学史研究、さらにはジェンダー研究の分野の中でさえ、家政婦たちは社会的に価値のある存在とはみなされず、無視されてきたのだ。また、植民地政策という歴史的現実の多様な解釈を目的とし、思想運動と植民地の近代に焦点を置いた、朝鮮半島植民地化問題の考察においても、家政婦の存在は、これまで分析の対象にされてこなかった。朝鮮人家政婦たちは、ごく当たり前に存在した人々であるにも関わらず、「民族」「労働者階級」または植民地時代の都市部に見られた「モダンガール」のいずれとしても認識されておらず、韓国・朝鮮の知の歴史という枠組みの外に置かれ、家庭という空間に閉じ込められた低技能労働者の「下女」として、沈黙を強いられたままなのである。

筆者は本論の中で、1920年代から40年代にかけて日本人入植者に雇用された朝鮮人家政婦の社会歴史学的な地位を考察し、それによって、植民地時代の「正規の朝鮮史」からその存在を排除された現地女性たちの軌跡を、以下のようなプロセスでたどってみることにする (注3)。第一に、筆者は、入植者たちがまだ日本出身の家政婦を雇用していた、日本人コミュニティの初期段階である1870~1910年代の状況を述べる。第二に、朝鮮人家政婦に言及する様々な記録文書と、日本統治時代と独立後に書かれたテクストの中で、彼女たちがどのような方法で表象されているかを分析することにより、「植民地時代、ポストコロニアル期における女性労働者」としての朝鮮人家政婦像の輪郭をさぐる。第三に、朝鮮人女性と日本人入植者が、家庭という私的空間に共存し、互いに親密感を抱くというまれな現象 (内鮮結婚や異文化への傾倒を含む) についても、特に注意を払いたい。最後に、筆者はテクストに網の目状に張られたディスクールに見え隠れする、日本統治下における朝鮮人家政婦の様々な声を拾い上げることにより、彼女たちのサバルタンという立場について論じる。この論文は、G. S. スピヴァクが述べているところの、「ジェンダー化されたサバルタン」の主体性と声を排除してきた、歴史的状況とイデオロギーの構造に光を当てる。そして、ジェンダー化されたサバルタンの唯一の立場が、近代の労働をカテゴリー別に分類するような原理や、植民地時代の朝鮮で覇権をふるったエリートの言説によっては完全に実証できない、という点を明らかにする。

 

家庭的空間の建設:1870~1910年の朝鮮半島における日本人植民者と家政婦

日本による朝鮮半島の占領以前の1890~1910年までの期間、日本からの移民は増加傾向にあり、朝鮮国内に日本人コミュニティを設立しつつあった。しかし、さらにそれ以前の時代に、最も早く朝鮮半島に移住した日本人の中には、役人や商人たちが含まれていた ((注5)。1870年代後期の史料によれば、下層階級の女性たち (芸者・ホステス・娼婦・下女など) が、このような男性移住者の集団に同伴したという (注6)。1903年ごろまでには、日本人の家政婦と水商売女性の比率は1:1であったが (注7)、日本帝国による朝鮮半島占領直後の1911年には、その統計に変化が見られた。その年のデータによれば、ソウル市内の日本人入植者の職業人口で四番目に多かったのは「下女」であり、娼婦を含む「水商売従事者」の12位をはるかに上回った (京城居留民団役所 [1912] 1915:456–60)。

下層階級出身の日本人女性労働者の増加は、日本人男性労働者 (商人や日雇い労働者) の数に比例する。このような男性たちの多くは独身者、または家族より一足先に朝鮮半島へ移住した人々である。そのような単身の男性移民者に同伴した日本人下女たちは熊本・長崎・広島・岡山などの貧しい農村・漁村出身の女性が多かった (Hinosuke 1914: 126–27)。(訳者注: 筆者の引用注ではHinoとされているが、これは「匪之助」というペンネームであると思われる)。彼女たちの仕事内容は、寝室と台所での家事・裁縫・育児の三つに分類された。朝鮮における日本人家政婦の賃金は月に5円から8円が相場で、これは日本国内の家政婦の賃金を上回っていた (神戸で5~6円、東京では4円以下)。日本から家政婦を連れてくるのには、コストがかかるだけでなく、需要と供給のバランスが崩れていたために、通常よりも高い給与を要求されることもあった(Hinosuke 1914:127-28)。

『朝鮮及満州』という出版物によると、1910年のソウルで働いていた日本人家政婦には「焚き鍋」と呼ばれる類の女性が含まれていた。「焚き鍋」とは、「性の遊び道具」を意味する。(訳者注: 筆者は「takinade 焚き撫」としているが、匪之助による原文にて「焚き鍋」であることを確認した)。これらの女性は「韓妻」とも呼ばれ、朝鮮に一時滞在する日本人男性労働者 (事務職の者や商売人) の家政婦兼情婦となった。また、事務員・看護婦・朝鮮人家族のための日本語家庭教師・芸者・仲居として雇われた日本人の女性労働者の中にも、隠れて「韓妻」を兼業していた者がいたという (Hinosuke 1913: 128-29)。

日本人家政婦に対する世間の評判は芳しいものではなく、特に韓妻を兼業する家政婦は、マスコミの非難を浴びた。『朝鮮及満州』(Hinosuke 1913: 128-29) の記事によれば、日本人家庭での重労働と過酷な環境を避けるために、女性たちが非道徳な「焚き鍋」の世界に陥ってしまったのだという。しかしながら、日本人男性の情婦になることには、過酷な肉体労働から免除されるだけでなく、金銭面のメリットもあった。日本人家政婦たちは韓妻として囲われる際の手当てに魅力を感じていた。通常の韓妻の給与は月に10~15円にもなり、当時の朝鮮で家政婦として働いた場合の報酬の軽く二倍から三倍を稼ぐことができたのだ (Hinosuke 1914: 129)。韓妻は1900年代初頭のソウルという特殊な環境の産物である。まず、独身の日本人植民者という、家庭的基盤をもたない男性たちが、そのような女性に対する高い需要を生んだものの、供給が追い付かなかったために賃金は高騰した。さらに、植民地形成の初期段階という、無秩序な雰囲気が、韓妻という職業を後押しした面がある (注8)。また、1900年代初頭の朝鮮における、日本人女性労働者の社会的地位に関して言えば、「普通の職業」と「賤業」の境界線が曖昧な場合が多かった。彼女たちに開かれた機会と言えば、ごく一握りのフルタイムの事務職を勝ち取るか、家庭内の周辺的な空間で、妾やホステスや娼婦などと紙一重の立場に甘んじるかのどちらかであった (注9)。しかし、興味深いことに、これらの女性たちは、単純労働に従事することを要請され、帝国の周縁に追いやられた、ただの無力な犠牲者ではようだ。日本人家政婦たちはマスコミに「焚き鍋」つまり「快楽のためには職業を選ばない類の女たち」と嘲笑されていた (Hinosuke 1913: 130) かもしれないが、自分の肉体を商品化することと引き換えに、それぞれの欲望や興味を能動的に追求していたのであろう。

 

植民地朝鮮における現地女性のための新興労働市場

近代初期の朝鮮で、賃金労働としての家事を受け負った家政婦たちは、もともと前近代朝鮮の社会階級制度の下層において、多様な家庭内労働を担う者として働き始めた人々である (注10)。彼女たちの地位や仕事内容は、前近代の「女中」と近代の「女性労働者」の中間に相当する (注11)。当時、近代的な雇用形態が形成されつつあったにも関わらず、家事に加えて、育児や看護などの「親密な」労働を提供した女性たちは、不当解雇や差別待遇などの危険にさらされていた (注12)。

先述のように、1910年代まで、朝鮮半島に移住した日本人の多くは独身男性であり、その単身世帯で家政婦が必要な際には、日本人女性を雇っていた。しかしながら、入植者に占める核家族の割合が増加した1920年代ごろから、日本人家庭で働く家政婦も、日本人から現地女性にとって代わるようになった (注13)。その結果、1920年代から30年代にかけて、朝鮮のマスメディアが、日本人家庭で働く朝鮮人家政婦に関する様々なニュースを報道するようになった。1920年代後半には、日本人入植者のために働く「朝鮮人家政婦ブーム」とも言える現象が起こった (『東亜日報』1928年2月7日, 3月13-14日, 12月11日, 1929年10月9日)。つまり、入植者に「オモニー」「オマニー」(どちらも「お母さん」の意)、または「キチベ」(「お姉さん」の意) と呼ばれる朝鮮人家政婦が、日本人家政婦よりも頻繁に、日本人家庭に雇われるようになったのだ。これは、入植者が前者を後者以上に好んだからではなく、植民地在住の日本人女性が少なかったことと、現地女性を雇う方が安上がりだったという条件のために起きた変化である。

朝鮮人家族が同国人の家政婦に支払う給与が月に2~8円だったのに対し、日本人植民者はにオモニーに10~19円、キチベに5~8円も支払ったという (日本語能力が高ければ、さらに給与が上がった)。それでも、これは、月に20円稼ぐのが普通だった日本人家政婦の給与の半分の額である (Kajiyama 1964: 14; Kasai 1937: 68)。報道によれば、朝鮮人家庭で働いた場合と比較して、入植者に雇われると、「日本文化に触れられる」「労働内容の軽減」「高賃金」という利点があったという (『女性』1940年1月: 39-40; 『毎日新報』1935年7月13日) (注15)。こうして、朝鮮人の女性労働者が日本人家庭で働くことは、相対的に悪くない仕事だと考えられるようになり、「オモニー・ブーム」をもたらした (Kasai 1937: 67) (注16)。特に、就業経験に乏しい少女・未亡人・離婚女性など、生家や郷里で経験した貧困生活や孤独感とは無縁そうな都会生活を夢見る女性たちにとって、日本人家庭で働くことは素晴らしい機会であるように思えたのである。

表1に示したように、朝鮮人家政婦の80%は地方出身で、ソウル出身者は20%にすぎなかった。また、興味深いことに、およそ90%の朝鮮人家政婦は中流階級出身で、下級階級出身者はたったの10%であった (注17)。さらに、この中流家庭出身の女性の中には、家政婦を雇えるほど裕福な家庭に育ったにも関わらず、その後の経済的困窮のために、自身が家政婦にならざるを得なかったような者も含まれる(『東亜日報』1928年3月14日)。朝鮮人家政婦のおよそ13%は小学校または中学校卒で、約25%は日本語の会話能力があったという。80%が17歳から30歳で、その多くが既婚・未婚・離婚女性であった (注18)。言うまでもなく、朝鮮人家政婦にとって、日本語能力は非常に重要な技能であった。植民地朝鮮において、女性の識字率がとても低かったことを考えると (注19)、日本人家庭で働く朝鮮人家政婦の25%もの女性が日本語を解したという事実は、彼女たちの多くが下層階級出身の未熟練労働者ではなく、中流層出身者だったという事実を裏付けている。

表1. 1920年後期における日本人家庭で働く朝鮮人家政婦に関するデータ

出身地域 地方 (80%) ソウル (20%)
社会階級 (行動・表現・
言語)
地方または都市の中流層 (90%) 下層階級 (10%)
年齢 30歳以上 (20%)
(最年長者: 54~46)
17~30 (80%)
(最年少者:17~18)
配偶者の
有無
30歳以上・未亡人 (20%) 17~30歳・既婚/未婚/離婚 (75%) 17~18歳・未婚 (5%)
日本語会話能力 流暢 (5%) 日常会話 (20%) 不十分 (75%)
教育レベル 初等教育のみ (10%) 中等教育終了 (2~3%)

出典:「日本人家庭のオモニー1」(『東亜日報』1928年3月13日); 「日本人家庭のオモニー2」(『東亜日報』1928年3月14日); 「日本人家庭のオモニー3」(『東亜日報』1928年3月15日)

 

さらに、当時の新聞報道からもわかるように、日本人家庭で働くオモニ―のイメージは、「ハイカラ」「インテリ」「洋装」「ボブカットの美人」など、「新しい女 (New Woman)」のそれと重なるところがあったのだ (注20)。「ハイカラなオモニ―」という表現からもわかるように、日本人家庭で働く朝鮮人家政婦の複合的なイメージの一面は「ちょっと知的な女性」というものであるが、この現象は、植民地の経済変動と、被植民者の社会経済階級の破綻に起因すると思われる (注21)。既婚男性との不倫恋愛の結果、1920~30年代の朝鮮で非嫡出子の母となった「新しい女」を描く数篇の短編小説の中で、当時の「新しい女」が「オモニー」に転職するパターンの一例が提示されているのは興味深い (注22)。それらの短編の中では、「新しい女」から「オモニー」に「身を落とした」女性たちは、経済的危機や社会常識からの逸脱などによる、様々な困難を抱えた人物として描かれている。しかしながら、実際のオモニーたちの多くは、日本統治下で高等教育を受けることができた、恵まれた人々であった。実際に家政婦を募集した日本人家庭では、ハイカラ女性よりも、田舎出身の快活な少女が「使いやすい」という理由で好まれる傾向にあったとは言え (Kasai 1937: 68-69)、オモニーという職業は、社会的に孤立した「新しい女」たちに、匿名性を保ちつつ高い賃金を得ることのできる機会を提供した。全ての朝鮮人家政婦を一枚岩のように扱うことはできないものの、地方の下層階級出身者であれ、都会出身の知的な女性であれ、彼女たちが当時、雇用機会を切実に必要としていたのは事実である。そして、1930年代後半の朝鮮半島における日本人人口の増加と、それに伴うオモニーへの需要増加の結果、朝鮮人女性に日本語・算数・作法を数ケ月間教える、いわゆる「家政婦学校」まで出現したという (注23)。

朝鮮人女性が日本人家庭で働こうとする動機として興味深いのは、家政婦が前近代以来の身分制のために卑賎視されがちな職業であり、朝鮮人雇用者に見下されることを避けたい、という意見である (『毎日新報』1935年7月13日, 1937年11月13日)。しかしながら、日本人家庭における朝鮮人オモニーの生活も、理想とは程遠いものであった。オモニーたちが耐え忍んだ数々の苦難の例は、畳の上で寝る事・調理法の違い・日本人客を接待する際の重圧・育児法の違い・過度な叱責・無実の罪を着せられること、などであったという (『東亜日報』1928年3月15日)。実際、オモニーたちは、日本家庭の習慣を知らなかったり、習慣に適応することができなかったりしたため、様々な苦労を強いられたのだ (注24)。

当時の新聞は、窃盗や雇用者家族の男性との性愛関係を糾弾される朝鮮人家政婦の話でもちきりであり (注25)、日本人男性 (家主・日本人経営の商店の店員など)との不倫や駆落ち、さらには心中を報じる記事は、決して珍しくなかった (注26)。他方で、朝鮮人家政婦の間で最も恐れられていたことの一つは、悪徳雇用者に性暴力を振るわれることであった (『東亜日報』1928年3月15日)。この類のレイプや殺人事件は、朝鮮人家政婦について報じる新聞記事の大きな割合を占めていた (注27)。レイプ・殺人の犠牲や愛人契約の対象になることは、朝鮮人の家庭で働く女性にも起こったが、当時の報道によれば、日本人に雇われたオモニーが性暴力と搾取の被害者になる事件が顕著だったようである。このような扇情的な言説が頻繁に報道されたからといって、当時の日本人家庭内において、現地女性の性的搾取が、植民者の覇権を象徴するかのように頻発していたとは、すぐ結論づけられないかもしれない。しかし、雇用者/被雇用者、男性/女性、植民者/被植民者という重層的な支配関係のため、日本人家庭で働く朝鮮人家政婦の立場が特に脆弱なものであったという事実をくみ取ることは可能である。

構造的な権力の差という困難は否定できない一方で、朝鮮人家政婦が、加害者・被害者どちらともいえない状況に置かれる場合もあった。例えば、強姦被害者であるオモニーの報道を、彼女が加害者となった窃盗事件の記事として読むこともできる (『毎日新報』1937年7月9日)。また、不倫事件に関して言えば、双方の同意のもとに始まった関係なのか、女性が強制された関係なのかを区別することは難しかった (『中外日報』1928年10月14日; 毎日新報』1937年6月9日)。

オモニーに関するマスメディアの報道手口は、韓国における学術批評というレンズを通してみると、より複雑なものになる。新聞記事の中には、書き手がオモニーに対して明らかに嫌悪感を抱いているものもある。ある記者の言葉によれば、オモニーは「日本人が市場で買いあさる安物商品」に過ぎず、「朝鮮の伝統的な民族衣装を着て日本の下駄を履くような、奇妙なスタイル」の持ち主なのである (『東亜日報』1928年3月15日)。不格好な「タルガクバリ」、つまりバランスの悪い下駄などというものを履いて、植民者である雇用者の後をオドオドついて歩き回る「可哀想で愚かな朝鮮人家政婦」の姿も、新聞の戯画として広まった (訳者注: 論文446頁参照)。

植民地時代の有数な作家であるヨム・サンソプ (1897~1963)は、このちぐはぐで無様なオモニーの姿を熱心に観察した人物である。ヨムは「三人家族」([1930] 1992) という題の短編小説の中で、甲斐性のない夫に代わって貧しい家計を支えるべく、日本人家族のオモニーになる女性を描いている (『大衆公論』1930年3月, 4月)。この短編のナレーターは、日本人雇用者と「不適切」で「望ましくない」関係に陥るオモニーの姿を飽くことなく描写している。ヨムが抱く、日本人のために働くオモニーへの不信感は、別の作品の中でさらに明らかになる。彼のもっとも人気のある『二心』という小説 (『毎日日報』1928年10月22日-1929年4月24日) の女性主人公・チュンギョンは、知的階級出身の「新しい女」であるが、社会主義者の夫が政治犯として投獄されたのち、ホテルマネージャーの佐野という日本人の家政婦になることを決心する。チュンギョンは自分の雇い主と不倫関係に陥り、しだいに経済的な主従関係と道徳的堕落に囚われてしまう (Yŏm [1928] 1987)。

ヨムが『二心』の中で物語の装置として用いているのは、「資本家である植民者男性」と「労働者である被植民者女性」という非対称な制度の中で稼働する性的関係である。夫不在の状況下、資本家である植民者男性の佐野に従属せざるを得ない、知的階級出身の社会主義者であり被植民者女性でもある彼女は、日本帝国主義の拡大と植民化が、政治思想的自由を喪失していく様相を喩えているかのようだ。しかしながら、この作品の中で描かれるオモニーの道徳的堕落は、被植民者男性である作者の、自己の欲望に正直な女性に対する、強い嫌悪感を帯びた視線と隣り合わせである。

ナレーターはその皮肉と批判をはらんだ目をチュンギョンに投げかけ、資本家である植民者の誘惑に屈したこの朝鮮人女性の「裏切り」と「無抵抗」に対して抱く「屈辱感」と「怒り」を表現する。だが、植民者の管理下にあって無力・無抵抗な女性を人物化するこの物語の枠組みは、植民地という文脈の中で再供給された男性性の優位を露呈している。この男性性の優位というものは、国家主義的な枠組みにおける、男性による女性性の管理という仕組みを下敷きにしつつ、この小説の中では、それが植民者男性による被植民者女性の支配関係に置き換えられている。

つまり、オモニー達は、ヨム・サンソプのようなエリート朝鮮人男性たちから、「性欲と物欲に溢れた忌々しい売国奴」として見下される存在であった。植民地における愛国的・社会主義的なイデオロギーが高まる中、チュンギョンのような女性は、己の道徳心腐敗の犠牲になった人間だと考えられていた。だが、このようなオモニーたちを不当に悪者扱いする不快な朝鮮人家政婦像は、植民地世界の中でも曖昧模糊とした領域に浮かび上がってくるものなのであり、特に、男女間の性的な親密さという問題は、イデオロギーの図式にすっきりと当てはまらないことが多いのだ。

 

日本人植民者と朝鮮人被植民者の性愛

強者と弱者が結ぶ関係性において、性愛は中間的な空間であると考えられる。弱者にとって、性的な親密感は支配者への従属であるだけでなく、背徳行為でもあるため、主従関係下に生じる性愛は「人々がいかに対外的には規律に従い、私的にはその規律に背いたか」という事実を示唆している (Stoler 2002: 213)。

『東亜日報』に掲載された1928年の記事によると、朝鮮人・日本人間の結婚と、ソウル市内の日本人村住人ら (官僚と企業の重役を除く) が、頻繁に現地女性を家政婦として雇用していた事実は、切っても切れない関係にあった。そのような日本人雇用者の多くは商店の経営者で、日本人男性の店員とオモニーを雇うことが多く、いわゆる「国境を越えた恋愛」が生まれる契機を作ったのである。ソウルの戸籍登録所によると、日本人男性と朝鮮人女性の結婚は1923年の時点では数件にしか過ぎなかったが、1926年までには40件、1927年までには50件にまで昇ったことがわかる。詳しく分析すると、そのような日本人の夫はたいてい下層階級出身であり、朝鮮人女性労働者と同じ空間を長期にわたって分かち合ったことが、恋愛関係のきっかけになったことがわかる。また、正式に登録され、公式統計に表れる婚姻の数を上回る、日本人・朝鮮人間の内縁関係も存在したと考えられる (『東亜日報』1928年3月14日)。

この『東亜日報』の記事は、日本人が経営する商店の日本人男性店員と朝鮮人家政婦の、国籍と民族の違いを超えた恋愛が珍しくなかったことを示す、新しいデータを提示している。そのような恋愛関係が結婚に発展した事実も、植民地政府による1923年から1937年までの統計に現れている (注28)。このように、内鮮結婚の数は、日本人の朝鮮半島への移住増加に比例して増加した。しかしながら、この統計によると、日本人男性と朝鮮人女性の組み合わせが、その逆のパターンを多少上回るとは言え、入植者人口の全体から見ると、現地女性と結婚する日本人男性は、日本人と結婚する男性と比べ、やはり少数派であった (注29)。

植民地政府が、内鮮結婚を奨励する政策を打ち出したにも関わらず、日本人と朝鮮人の結婚は盛んとは言えなかった。実際、そのような夫婦は、文化の違い・政治思想に基づく差別や、国籍・民族の違いに基づく偏見などの障害を乗り越えなければいけなかったのであり、日本人男性は、朝鮮人女性が「教養や洗練に欠ける」という口実の下、現地女性との結婚を避ける傾向にあったのである。朝鮮人女性が日本人女性に劣るという考え方は、これまでも、植民地朝鮮における内鮮結婚の少なさの理由とされてきた (注31)。また、植民地政府にとって、より望ましい形の内鮮結婚は朝鮮人男性と日本人女性の組み合わせであった。そうすることによって、朝鮮人男性を帝国軍隊に入隊させ、日本帝国に臣民として従属させることができたからである。

どのような人々が、実際に植民地朝鮮で内鮮結婚をしたのかという問いに答えるには、社会階級と内鮮結婚の関係性について考える必要がある。『内戦一体』誌 (1940年1月)の統計によると、1928~1937年の間に報告された、日本人男性と朝鮮人女性の内鮮結婚の大部分 (内縁関係を含む) は、男女ともに労働者階級出身者であったという (注32)。内鮮結婚における階級要因は、結婚の本質を、植民政策や帝国言説と相反させる (注33)。実際、植民地朝鮮での内鮮結婚は、帝国側による斡旋や、エリート入植者男性が抱いた朝鮮人女性への親近感によるものというよりは、もっと卑近な理由―労働者階級の男女間の物理的な距離の近さ、交流の機会の豊富さ、労働者同士としての共感など―がきっかけであったと思われる (注34)。つまり、日本人世帯に朝鮮人家政婦が存在したことそのものが、内鮮結婚の契機になったと考えるのが妥当であり、政府の植民地管理政策とは無関係に起こった現象なのである。

乏しい史料を見る限りでは、日本人商人の妻や日本人である家主の愛人になった朝鮮人家政婦は実在した。しかしながら、そのような関係は、19世紀から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ植民地におけるそれとは比較にならないほど少なく、日本人入植者の家庭内秩序が、朝鮮人家政婦のために乱されたとは言えない (注35)。これは、帝国政府が奨励した同化政策に反し、植民地朝鮮に日本人のための排他的な空間が作られたことに関係する。つまり、日本と朝鮮が隣国同士であったことにより、入植者は植民地の自然や文化に慣れるために、現地人の助けをあまり必要とせず、日本人村の住民たちは日常的に朝鮮人とコミュニケーションをとらずとも、不便を強いられなかったのである。しかしながら、日本人コミュニティの排他性は、現地人の助けを必要としなかったからだというよりは、帝国民としての「被植民者より優れ、区別されるべき」主体に基づくものであった。植民者と被植民者との人種・民族的そして文化的区別は、ヨーロッパの帝国主義にも見られるものであるが、同じ文化圏に属する国としての歴史や人種的特徴を共有する日本人と朝鮮人の場合、この二つの民族を差別化するためには文化的・内面的な差異を明確にすることが求められた。

ヨーロッパの植民地に頻繁に見られた、現地女性と入植者の「オープンな愛人関係」や「真の夫婦関係」と違い、朝鮮人家政婦は、日本人家庭という日本的な空間の片隅で、家事育児の手伝いを行うだけの地味な存在であった。日本人が、自らの民族アイデンティティと帝国臣民としての意識を構築する過程において、日本人家庭という排他的空間の存在する朝鮮人家政婦は、遠ざけ、異物化する対象であり、また、そうすることにより、入植者は被植民者に対する優位性を補強したのである。その一方で、オモニーやキチベは家庭という領域で、植民者と被植民者をつなぐ唯一の存在でもあった。オモニーたちは、植民地政策の下で排除されるだけの存在ではなく、植民者の無意識の感情表出や、抑圧された性衝動のはけ口になりうるという、それまで未開拓だった空間をも占有する存在になったのだ。

朝鮮人家政婦が日本人家庭で提供した家事労働は、雇用者の民族的・文化的・階層的・政治的格差を脅かさない内容のものであった (Sawai 1996: 71-75) (注37)。例えば、日本人妻たちの多くは、朝鮮由来のものをあまり快く受け入れなかった。顕著な例は食材で、日本人は大蒜や唐辛子などを食べる朝鮮の食習慣とは一線を画した (Sawai 1996: 71)。「朝鮮の臭い」に対する嫌悪感は、次世代の入植者にも引き継がれた。小林勝は、その短編小説「蹄の割れたもの」(1969) の中で、朝鮮人家政婦が現地の食べ物を持ってきた際に、その家の子どもたちが吐き気を催す様子を描いている。さらに、朝鮮半島に住む日本人の子どもたちが、幼いころから現地の人々に対する偏見を刷り込まれ、朝鮮人 (特に平民階級出身の労働者) は不潔ゆえに、貧しい朝鮮人家政婦が調理したものも非衛生的だ、という考えを内面化する様も表象されいる (Kobayashi [1969] 2007: 49-50)。

1940年代に誠信女学校の校長を務めたイ・スクチョン (1904~1985) によると、当時の日本人女性の朝鮮人女性に関する知識は、たいてい「オモニー」という限られた職種の女性とのやりとりに基づいており、包括的な「真の朝鮮人女性」や朝鮮の文化・習慣に関する知識に欠けていたという (Yi 1940: 16)。そして、もともと朝鮮人家政婦だけを指した「オモニー」「キチベ」という言葉が、やがて「日本人に混じって住む朝鮮人女性」全体を呼ぶ語に変化していったことは興味深い事実である (注38)。日本人が抱く「朝鮮人家政婦」像から分かるのは、いかに社会階級・性別・人種が「朝鮮民族」のイメージ構築と複雑に絡み合っているかという事である。日本人の専業主婦に代わって家事労働を担った朝鮮人家政婦たちは、労働者階級の朝鮮人全体を表すステレオタイプとして、日本人の子どもたちに提示されたが、このような固定観念の形成は、植民地に見られる経済的支配構造を反映している。例えば、小林の「無名の旗手たち」に描かれる朝鮮人たち多くは、僅かな報酬のために単純作業に従事する極貧の人々である (Kobayashi [1962] 2007: 116)。1926年11月3日発行の『東亜日報』によれば、もともと中流の朝鮮人主婦たちの間でも、朝鮮人家政婦は「盗癖があって、ずるくて、信頼できない」みじめな生き物で、「人間として扱われるに値しない人々」だと考えられていたという。このような、家政婦に対する不当な評価は、朝鮮人の間では身分的偏見に基づくものであったが、日本人入植者の間では、それが朝鮮人の一般的な人種的特徴として認識されるようになったのである (Kobayashi [1962] 2007:  114-15)。

しかしながら、家庭という狭い空間を、他人と共有するということは、予期せぬ絆が結ばれうる環境を作るということでもあり、日本人の子どもとオモニーの親交はその例である。アン・L・ストラーは、「道徳心のない」「未開人」である被植民者の使用人が、雇用者の子どもを堕落させるとされる「親密空間」の分析により、ヨーロッパの植民地が、「従順な市民」や「統率しやすい臣民」の育成過程で、どのように現地の人々の感情・感覚を創造・管理したかについて検討している。植民地朝鮮の場合、日本人入植者の子どもである女の子が、自分を世話してくれる朝鮮人家政婦に愛着を感じるようなケースもまれに実在したことが史料に見える。そのような親近感が、引揚者のオモニーに対するノスタルジアを生むのである (注39)。確かに、小林勝の文学作品などを見ると、日本人の子どもが朝鮮人家政婦との交流によって感じた愛着や文化的な共感は、身体的・感情的な「汚染」を危惧した親たちによって、その芽を摘まれたことがうかがえる。しかしながら、筆者が次節で検討する「親密な空間」では、朝鮮人家政婦の肉体が「接触地帯」―日本人家庭における植民者・被植民者間の「遭遇の場」―となり、感情ポリティクスの動的な展開をも表出する場となっているのだ。

 

植民地支配と非日常の生理学

これまでの研究で、日本人入植者たちが決して一枚岩でなく、多様な人々から成る集団であったことが分かっている。だが、その多様性を一皮むくと、入植者が支配者として抱く、様々な不安感や恐怖が層を織りなしていることが見て取れる。入植者たちは、自分たちの居住地から一歩でも外に出れば、植民地特有の緊張感―日本化された空間に閉じこもっている限り無視したり抑圧したりできるもの―に対峙せざるをえなかった (注41)。一方で、家庭という私的空間で培われた感情の回路も、入植者の主体における身体表現や情操などの生理学的なものを含む、「植民地の現実」を映し出すという重要な役割を担っていた。ゆえに、支配層と被支配層の間に、いかに愛着感が形成され、衝突し、「接触地帯」において偽装されたのか、という問題を紐解くことにより、帝国政府の「内鮮一体」などに見られる同化思想 (植民者と被植民者の平等・絆や、アジアの人々が民族的な優劣を超えた人種的共通点を持つと説いた「氾アジア主義」) にはほど遠い、植民地の内部構造が露呈されるのだ (注42)。

植民地朝鮮で生まれ育ち、戦後引き揚げた入植者二世の間で語られる回顧的なストーリーは、彼らの葛藤や混乱に溢れた被植民者との遭遇をフィクションという形で我々に提供する (注43)。それらは、植民者が戦後抱いた、収束不可能な不和と苦悩を劇的に描くものの、中には植民地 (入植者二世にとっての「故郷」) に対するノスタルジアにあふれる作品も存在する。小林勝の短編小説「蹄のわれたもの」は、主人公の日本人男性が、かつて植民地で過ごした少年時代と、彼の悲劇的な記憶の中核に存在するオモニーを探索する物語である (注44)。「エイコ」という日本名をもつこの朝鮮人家政婦は、不可解で強情な気質・豊満な肉体・切れ長の目の持ち主で、おとなしく従順なオモニーの典型とは全く異なる人物として描かれる (Kobayashi [1969] 2007: 38-39)。エイコの威圧的で力強いイメージは、彼女が、雇い主の飼い犬に非常に残酷な態度 (最終的には殴り殺してしまう) を見せる際に、主人公の少年をさらに困惑させる。しかし、彼はある時、思いがけずエイコの強い体臭と身体的接触に性的な興奮を覚える (52)。彼女の体から発される独特な臭いは、ニラ・青ネギ・大蒜・瓜・海藻・太刀魚・ツツジなど、朝鮮料理に使われる食材の合成物だと表現される。この香りが、若き植民者の感覚を圧倒し、「汚染」の恐怖にも関わらず、エイコに対する強力な性的魅力を喚起する(47-48)。これらの矛盾する感情は、居間で起きた性的な出来事の直後、頂点に達する。少年は自己嫌悪と「朝鮮人女の汚らわしい肉体」への憎しみの間で揺れ、強い羞恥心と恐怖感、そして、ある種の荒廃感を覚えるのだ(52-55)。

男性植民者が現地女性に感じる性的魅力は、帝国主義言説に顕在する象徴的なパターンを示唆するものの、「蹄の割れたもの」はそれ以上に、日本人少年の植民者としての複雑な心境と、被植民者であるオモニーの戦略的な反応に焦点をあてている。居間での事件の直後、主人公は背後から聞こえるエイコの悪意に満ちた笑い声を聞く。そして、彼女の最後の言葉が少年を震撼させる:

ぼっちゃん、ほんとにわるい子になったね。だけど、みんなおなじだものね。そして. . . ほんとに、わたしはよくねむっていたよ、なんにもしらなかったよ、チョッパリ」(56-57)。

「チョッパリ」とは「蹄の割れたもの」という意味で、日本人に対する朝鮮語の蔑称である (朝鮮人同士で使われた言葉であり、日本人に面と向かって使われたわけではない)。その出来事に至るまで、エイコは少年の性欲を刺激していたのだが、彼女がその欲望の共犯者になった瞬間、彼女の日本人家庭における地位は著しく変化した。エイコの「チョッパリ」という突然の発言は、植民者の優位性を象徴的に崩壊させる行為と言える。本名を隠すためのエイコという日本名と、彼女の被植民者としての自己は、1945年8月15日の終戦とともに突如終焉を迎え、この少年を絶望させる。日本の敗戦が宣言された直後、主人公は道を往来する群衆の中にエイコの姿を見つける。彼が「エイコ!」と叫ぶと、彼女は冷酷に首を振り、本名であるオクスンという名を告げ、真の自己をあらわにする (63-64)。

この作品中の、恐ろしい場面のいくつかは、オモニーと日本人少年の性的な遭遇を描くものである。少年とエイコとの肉体的な接触は、彼(そして小林自身) に身震い・ベタベタ感・ゴワゴワ感・痙攣・嫌悪感・軽蔑・吐き気・羞恥心・侮蔑・恐怖などの反応をもたらす。一方で、性的接触後のオモニーの反応は、クスクス笑い・ニヤニヤ笑い・声にならない笑い・冷笑・不気味な沈黙・ゆがんで紅潮した顔の表情・細めた目・指すような視線などであった (23-65)。これらは、雇用者の家庭に内在する、不平等な関係のために、長期に渡り抑圧されていた、エイコの感情を具現化するものであり、二人の主従関係を逆転 (一時的で、想像の域を脱しない類のものであっても) させるかのような、ある種の変化をもたらしている。何よりも、エイコが「チョッパリ」という語を発する瞬間と、オクスンという本名を告げる瞬間の二つの劇的な場面は、忍び寄る恐怖と不安感を少年に抱かせ、危機的状況にある主人公の存在を、さらに不安定なものにする。エイコ/オクスンの二つの叫びは、現地女性が己の抑圧者と結ぶ、不道徳的な性関係を招いた中間的な家庭空間において一時的に停滞していた、植民者としての幻覚と被植民者女性の「抑圧への回帰」の混同を引き起こすものである (注45)。

小林の作品は、植民者であった作者の、戦後の記憶をもとに、植民地体験をフィクション化する際の一手段を提示している。そしてこの物語は、(「声なき存在」とみなされながらも) 声を持つ被植民者とその抑圧者との対峙がもたらす「居心地の悪い異様さ」と、そのような対峙が、植民者の心理を侵食しうるという事実を、巧妙に具現化している。何よりも、小林のフィクションは史実と想像の交差する空間に「接触地帯」を描写しているという点において、注目に値する。また、その空間は、植民者と被植民者が遭遇・衝突し、非対称な権力関係を攪乱しうる肉体と情緒的な言語を通じ、互いに刺激しあう場でもあるのだ。

 

「朝鮮人家政婦」を表象するのは誰か

一般的に知られる「卑しい家庭労働者」としての朝鮮人家政婦像は、すべての朝鮮人が「後進的な労働者階級出身者である」という概念と、被植民者の他者性を強調するために作り出されたものであった。しかし、朝鮮人家政婦の中には、雇用者やその家族と性的な親密性を築いた女性も存在したという事実は、被植民者の一方的な従属的立場を、多少なりとも揺るがしたであろうと思われる。小林の作品の中で示唆されているように、支配者・被支配者間の性的関係は、植民者が、現地女性という「他者」の目を通して、自分自身の他者性を認識せざるを得なくなる瞬間をもたらすのだ。しかしながら、彼女たちの声がほぼ不在・未知・作り物である中、日本人家庭を外部から眺める人物としての朝鮮人家政婦、つまり、植民地下の主従関係に内在する文化的矛盾を露呈する立場に置こうとするならば、多種多様な朝鮮人家政婦像の表象が必要になってくる。

そのためにはまず、「オモニー」という、都市での賃金労働を求める女性の間で好まれる一方で、植民地主義に反抗する男性知識人に蔑まれる職業にまつわる、複雑な言説を整理しなければならない。この矛盾は、中流階級の中でも貧しい層の朝鮮人女性たちが、植民地近代の様々な欲望に抵抗しつつも、日本人家庭という場で、家事労働者たる空虚な地位に甘んじる結果になった背景を示唆する。オモニーたちの不安定な地位は、先述したヨム・サンソプと小林勝の対称的な二作品に反映されている。ヨムの小説『二心』のチュンギョンと小林の短編小説「蹄の割れたもの」のエイコは、二つの相反する (被植民者の目と植民者の目から見た) オモニー像を見せてくれる。どちらも朝鮮人家政婦を主要登場人物として扱っているにも関わらず、この二作品は、それぞれのテクストを構成する要素において、全く質を異にするものである。例えば、前者は植民地時代の1928年、後者は戦後の1969年の作品であることを忘れてはならない。つまり、一方は植民地の様子を同時代的に表象しているのに対し、他方は過去の再構築なのだ。

そのような執筆背景の相違性に加え、ヨムの「己の民族に背を向けた声なき売国奴」と小林の「被植民者を代弁する現地女性」を「オモニー」というカテゴリーで一括りすることはできない。このような、互いに相容れない朝鮮人家政婦の文学表象は、被植民者のヨムと植民者の小林という男性作家たちの、それぞれの身体と意識に深く刻まれた、植民地のトラウマ体験の記憶 (植民地時代と戦後という別々の文脈の中の、非対称的な政治的・知識的階層の産物ではあるが) を、オモニーを媒介として提示するものである。また、ヨムと小林は、男性の立場から、日本人家庭で働くオモニーというテーマにアプローチしているが、女性作家の立場から描かれた朝鮮人家政婦はどうなのであろう。作者の性別という要素は、朝鮮人家政婦の表象や、その他の日本人家庭内で起きる場面の描写を左右しうるのであろうか。

森崎和江 (1927~) は、ある日本人少女と、彼女の朝鮮人家政婦兼子守り役の女性のストーリーを通じて、日本人の子どもとオモニーの独特な関係を描く。森崎自身、朝鮮で生まれ、17年間をそこで過ごした引揚者である (注46)。彼女を育ててくれたオモニーの姿は、植民地で過ごした幼少体験の重要な位置を占め、その体験は多くの親密なエピソード (オモニーがおんぶしてくれたこと、焼き芋を買ってくれたこと、おでこに接吻してくれたこと、子守唄を歌ってくれたこと、人喰いトラの話をしてくれたこと、など) を伴っている (Morisaki 2008: 77-88)。森崎の植民地時代の体験を再構築することは、心の奥底に秘められてきた記憶を掘り起こすことを意味する。その記憶を幾重にも覆っていたのは、「支配と従属」という二項対立関係、植民者としての罪悪感、そして被植民者の目に浮かぶ、日本人への恐怖と敵対心である。注目すべきは、森崎が今でもオモニーの匂いと、オモニーが触ってくれた時の感触に深い愛着を感じていることであるが、森崎はその女性が何者で、森崎一家をどう思っていたかということに関しては、知る由もないのである。

森崎の作品の中で、少女の日常生活からふと姿を消してしまう、オモニーのミステリアスなイメージは、「蹄の割れたもの」のエイコのそれと好対称を成す。まず、前者は日本人女性作家による2008年の自伝的作品で、後者は1969年発表のフィクションである。作者の性別・虚構性の度合い・発表時期に関する差はあるものの、両作品は、戦後引揚者となった入植者二世の手によるという点で共通しており、遠い昔を振り返りつつ描写した朝鮮人家政婦像は、現代という文脈において、戦中や終戦直後とは異なる意味をもつ。しかしながら、小林の作品が、不治のトラウマ体験を持つ作者の身体と精神に残存するオモニーの姿を露呈するのに対し、森崎 (2008: 86–88) は自分の少女時代のオモニーを重大な影響力の源とし、朝鮮を自分の発祥の地・母国として描く。これらの質を異にする二つの記憶は、朝鮮人家政婦・入植者家族の間に、雇用時機や対峙する日本人の性別・年齢などによって、様々な関係が存在した可能性と、朝鮮人家政婦の多種多様な立場を示唆する。しかしながら、それぞれの作者が、朝鮮人家政婦の記憶をたどろうとしている過程に、オモニー自身の声は現れない。私たちは最終的に、どのようにして、テクストに点在する、バラバラでつかみどころのない像の集合体に、朝鮮人家政婦たちのサバルタン性を見出すことができるのだろう。

 

結論:聞こえるのは誰の声?

朝鮮人家政婦を「古めかしく、原始的な存在」(McClintock 1995: 30) から切り離し、歴史上実在した人々として可視化するためには、我々は、バラバラの主体性と声無き声を内包するサバルタン性の問題を考えつつ、絡み合った言説野に存在する、多様な表象を解きほぐしていかなくてはならない。家政婦という立場から発せられた、彼女たち特有の声を代弁することは、バラバラの像が衝突し続ける限り、実現不可能な課題に見えるかもしれない。実際、サバルタンとしてのオモニーの多様性は、アーカイブ史料の発掘 (多くのテクストに見られる多様性の欠如という穴を埋める作業) だけでは取り戻すことはできないであろう。スピヴァクが論じているように、サバルタンの声を見つけられないのは、我々が、彼らの声は自明で身近な存在で、聞けばすぐ理解できると誤認しているからなのだ (注47)。サバルタンに関する知識を積むことの困難 (「サバルタンとは、表象しようとすると隠れたり逃げたりするものだ」[Beverley 1999: 102]) から離れ、より深く個々の歴史的条件と、サバルタンの声をかき消す様々な抑圧に焦点をあてることの重要性は否めない (注48)。歴史上実在したサバルタンたちは一枚岩ではなく、多様なサバルタンたちの沈黙を、すべて同様の事象として扱うことはできない。ゆえに、私たちの研究は、いわゆる第三世界のサバルタンという一般的なイメージにとどまらず、さまざまな状況下にある、サバルタン女性の沈黙の特殊性について語るべきなのである。

植民地朝鮮のオモニーたちは、通常の植民地主義への抵抗とは異なる立場を選択した人々であると同時に、親密性を通して植民者への従属を経験した被植民者という点で、複雑な存在である。朝鮮人オモニーたちは、女工や都市のスラムの「娼婦」とは異なり、植民者家庭という場で、民族・社会階級・性別などの装置によって抑圧された自己を、独特な形の女性労働者として確立した人々だ。しかしながら、自分が読み書き能力のある女性だという自負を伴う、彼女たちの行為主体は、私的に雇用された女性が労働を提供するという枠組みにおいて、欺瞞として機能したかもしれない。皮肉にも、男性中心的な植民地の覇権に対する共謀者であり抵抗者という、相反するイメージの板挟みになったオモニーたちは、民族の一体感を乱した上、帝国国民 (男性) の主体性という特権を脅かす者とされ、植民地主義・反植民主義のエリート男性、いずれの立場とも相容れない人々であった。しかしながら、オモニーのサバルタン性には、地方の中流階級出身の女性が抱く欲望の軌跡が見られる。彼女たちは、都市生活者として、都会の物欲的な文化に触れつつ、新しい人生の物語を自身の力で実現しようするが、その物語には、植民地における様々な障害のために、期待通りにならなかったというプロットも含まれている。

植民地という境界の表面下には、複数の中間的な空間とその交錯点が存在する。植民地朝鮮で、現地女性のためのニッチな市場に身を任せたオモニーは、植民地内に存在する国境・階級差・性役割などの境界線を不道徳にも踏み越えた「他者としての先住民」とみなされた。だが、複合的な特徴を併せ持つオモニーは、乖離する植民地主義の二項対立・覇権的イデオロギー・社会的他者を構築する複数の枠組みを暴露することにより、植民地朝鮮の光景を表象するシニフェともなるのだ。

 

脚注

1.カン・イスの朝鮮国勢調査報告に基づく研究によれば、1930年代のソウルにおける女性労働者の69.6%は15~19歳で、38.6%は家政婦、21.9%が娯楽業従事者、10.3%が繊維業従事者、9.22%が商業従事者であったという (Kang 2005: 95)。朝鮮国勢調査報告に基づく別の研究では、家政婦は1930年後半までに、他のすべての労働者の数を上回っていたことが分かっている (Chŏn 2007: 138)。

2.植民地時代の家政婦に関係する先行研究はいくつかある (Kang 2005; Suh 2011, 2016; Yi 2013)。これらの研究は女性労働者としての家政婦を一次資料 (公文書・マスメディアのデータを含む) から分析するが、家政婦をめぐる社会構造と植民地近代に関する深い分析はされていない。本論は日本人家庭で働いた家政婦像に焦点をあて、筆者のこれまでの研究成果 (2011, 2016)を発展させたものである。

3.アン・マクリントック (1995: 30)は、女性や大都市の労働者階級出身者などの被植民者は「歴史上に現れて来ず、永久的に近代帝国という地理的空間の中の過去に、時代遅れ・後進的・衝動的で人間らしい主体性をもたない者、つまり太古の原始的なものを具現化した生き物としてのみ存在する」と述べている。

4.本論における「サバルタン」という語は、主として特権階級を扱う史学研究に現れない人々を対象とした、社会的・政治的実践の研究に関心を寄せる歴史家のサバルタン研究による。マルクス、アントニオ・グラムシ、サバルタン研究者グループ、スピヴァクの研究における、この用語の起源と変遷についてはモートン (2007: 96-105) を参照。

5.高崎宗司 (2006: 17-21) によると、朝鮮半島の日本人人口は、日朝平和条約が締結された1876年直後から急激に増加したという。1880年代後半の日本人入植者347人のうち、多くは商人 (半数は卸売業者、残りは工芸職人・貿易人・小売業者・食堂経営者・高利貸し) であった。

6.高崎 (2006: 71) の『京城発達史』(1912) に基づく調査によると、1896年のソウルにおける日本人入植者のうち、最大職業人口を記録したのは、酒場の女給 (娼婦を含む) であった。また、ソウル在住の730人の日本人女性のうち、5人に1人が女給であった。

7.ここでは、1870年から1910年の間に朝鮮に移住した日本人女性と、日本の植民地時代以前の朝鮮への移住奨励・規制緩和政策の調査をしたソン・ヨンオク (2002: 62-69) の研究を参照している。ソンの1903年データによると、釜山在住の685人の日本人女性労働者のうち、娯楽業従事者と女給は250人 (37%) にのぼり、家政婦は230人 (34%) にのぼった。つまり、「メイド」というグループに数えられた女性は71%を占めた。

8.植民地朝鮮に最初に入植した日本人は、明治初期の急激な社会経済階級システムの変化に伴う、資本主義経済への転換の波に乗り損ねた、破産商人や貧しい農民であった。彼らの多くは、経済的に未発達であった長崎県対馬・山口・広島、愛媛出身者だったという (Kajimura 1999: 227-29)。初期入植者にとって、朝鮮という植民地は、可能性を秘めた土地、もしくは母国での失敗から立ち直るチャンスを与えてくれる、経済困窮や赤貧からは程遠い場所であったのであろう。

9.明治初期から昭和にかけて、世界規模の性労働貿易に関与した日本人女性は、「からゆきさん」や「女子軍」と呼ばれた。このような女性はこれまで研究者の関心を集めてきたが、ソン (2002: 61-62) が指摘するように、植民地朝鮮に入植した日本人女性の研究はほとんどなく、韓妻も海外に派遣された女性労働者の一種であるが、これまでの近代日本史研究の中では、ほとんど扱われてこなかった。「朝鮮女房」という、帝国の周縁に疎外された日本人女性のグループ (おそらく韓妻に指定された人々) について書いた最初の研究者は、バーバラ・ブルックス (2005: 305-06) である。

10.前近代の朝鮮には、二種類の女性奴隷が存在した。「私婢」は私的に雇われ、上層階級の家庭で働いた奴隷で、「官婢」は役人に雇われた奴隷であった。私婢は「女中」と呼ばれており、家政婦・乳母・召使の役割を果たした (Yi 2000: 187)。1894年の奴隷廃止以降も、女中の雇用は伝統的な家族制度の一環として20世紀の前半まで続いた。家政婦は、そのような女性労働者の近代版として出現したのだ。

11.公式な職業名は「家事使用人」であるが、20世紀初頭の朝鮮において、シンモ、アンジャンジャギ、朝鮮オモム、テュナンサリ、カジョンブなど、様々な呼び方をされていた。シンモ (食母) はもっとも広く使用されていた語で、さらに針子・飯炊き・乳母・行廊オモム (住み込みの女中) などに分類される (Pak 1929: 29; Kasai 1937: 68)。

12.近代の家政婦と前近代の女召使との顕著な違いは、双方向の自由雇用契約と月給制度であるが、家政婦の採用・解雇の決定権は家主のみにあった。民間産業に属し、組織化が不十分な雇用形態であったため、家政婦は搾取被害に遭いやすい環境にいたと言える (『東亜日報』1926年11月3日)。

13.森田芳夫の『朝鮮終戦の記録』 (1964) を参照している梶村秀樹の調査によると、1920年時点での朝鮮半島の日本人人口は34万7850人であったが、1930年には52万7016人、1940年には国内人口の3%に及ぶ707万742人にまで増加したという (Kajimura 1999: 217)。『朝鮮国勢調査報告』に基づくソンの研究 (2002: 70-74)によれば、1930年代には、娯楽産業に従事する朝鮮在住の日本人女性は28.6%であったが、同時期の日本人家政婦の数は7.25%減少したという。

14.1929年2月、ソウル市で職を求めた762人のうち195人が採用された (男性74、女性121)。その121人の女性労働者のうち、119人がオモニーであった (『東亜日報』1929年3月8日)。植民地朝鮮が、経済不況と慢性的な失業に苦しむ中、このような不均質な雇用状況であったことは、植民地経済の構造的矛盾を示唆する。

15.1930年度の朝鮮国勢調査によれば、家政婦職には「住み込み」と「通い」の二種類があるが (Kang 2005: 97)、地方出身者のオモニーのほとんどは住み込みであったとみられる。

16.1930年代後半、日本人入植者の朝鮮人家政婦に対する高需要・低供給が「オモニーブーム」を引き起こした。このため、家政婦の数が不足し、朝鮮人家庭からの不満が巻き起こった  (『毎日新報』1937年11月13日;『東亜日報』1937年11月28日;『毎日新報』1938年1月5日, 11月28日;『東亜日報』1938年7月13日;『女性』1940年12月: 58-59)。

17. 初等教育を受けた当時の女性を「日本の大衆雑誌を愛読するインテリ」として描く文学作品もある (Pak [1938] 2009: 290)。1930年代の朝鮮では、初等教育がしばしば女工の採用条件となった (『東亜日報』1932年5月5日, 1933年7月30日, 1934年6月5日)。

18. 朝鮮国勢調査に基づくキム・キョンギルの調査によると、1930年に家政婦として働いていた全人口のうち、77.8%が独身者であった。その内訳は未婚62.7%、死別12.4%、離婚2.7%である (Kim 2002: 171)。

19. 朝鮮総督年報に基づくキム・プジャの調査によると、1932年の時点で朝鮮人女性の91.2%の女子が教育制度から排除され、日本支配が終わった1945年の時点でも、3分の2の女子は公立教育を与えられていなかったという。

20.『東亜日報』1928年3月14日;『中外日報』1928年10月14日;『毎日新報』1935年7月6日; 1937年7月9日。

21.教育を受けることのできた階層のオモニーを風刺した、「ハイカラ・オモム (オモニーの別称): 朝ゆっくり起きてきて、女主人に朝食の準備を頼まれると『今日は食欲がないから結構です』と答える女」と題された新聞記事もある (『東亜日報』1929年10月1日)。

22.チャン・トクチョ (1914~2003) は「子守唄」(1936) と題された短編小説の中で、既婚男性と恋に落ちて子どもまで産んだ「新しい女」が、その男に捨てられた際に、家政婦になることが選択肢の一つであったことを示唆している (Chang 1936: 344-67)。代表的な女性作家であるチェ・チュンフェ (1912~1990) の「血脈」(1937) もエリート社会主義者男性との婚外子を出産した「新しい女」が家政婦になるという物語である (『文章』1937年9月)。

23.インチョン地区の家政婦学校に関する報道は、1937年6月29日付『毎日新報』と1937年8月5日付『東亜日報』 に見られる。

24. 住み込み朝鮮人家政婦の家出や蒸発も報告されている (『毎日新報』1935年11月1日; 1936年2月5日; 『東亜日報』1939年7月24日、 同年12月15日)。また、家政婦の悲観や、自殺を含む自暴的な行動も報道されている (『東亜日報』1933年6月5日; 1934年3月21日; 『朝鮮中央日報』1935年4月29日; 『毎日新報』1936年9月6日)。

25. 家政婦が雇用先で窃盗の容疑をかけられ、体罰を受けたり自殺したりするケースの記事も見られる(『毎日新報』1935年7月6日, 9月20日, 10月8日; 1936年1月29日, 7月23日, 12月13日; 1937年3月18日, 3月27日; 1938年6月14日, 12月2日;『東亜日報』1938年7月9日)。

26.『東亜日報』1935年4月30日, 12月28日; 1938年9月15日;『毎日新報』1937年9月30日。

27.『中外日報』1928年10月14日;『東亜日報』1928年3月15日, 1928年12月29日, 1933年8月6日;『朝鮮中外日報』1933年11月9日, 1936年2月26日;『毎日新報』1936年12月25日; 1937年6月9日; 1938年8月6日。

28.植民地時代の朝鮮人と日本人観の結婚について言及している公式統計が現存する。一つは『内鮮一体』誌1940年1月号に掲載された「内地人と朝鮮人との配偶者統計表: 1923~1937」で、GGKの月例調査に基づいているとみられる。もう一つはGGK が発表した1938年から1942年までの朝鮮人口統計に基づく。

29.1928年の朝鮮半島における日本人人口は46万9043人であった。その中には朝鮮人女性と結婚した日本人男性 (268人、日本人入植者の0.05%)が含まれていた。1937年にはその数は686人 (0.1%) までに増えた。(『内鮮一体』1940年1月: 87)。

30.植民地時代における内鮮結婚のデータ分析には議論の余地がある。例えば、GGK提供の1938~1942年の人口統計によると、日本人男性と朝鮮人女性の結婚は急激に減少し、同期間の朝鮮人男性と日本人女性の結婚は一定して増加傾向にあったとされるが、日本人男性と朝鮮人女性の結婚の減少を十分に説明できる根拠はなく、唯一その時期に日本人男性が徴兵されたからではないか、という仮説があるのみである(Ch’oe 2000: 281)。

31.日本人入植者の間の内鮮結婚に関する様々な意見は『内鮮一体』誌に掲載されている (Ooya 2006: 69-77)。

32.この表によれば、1937年に朝鮮人女性と結婚した日本人男性の60~70%は農業・酪農・漁業・塩産業・工業・商業・輸送業出身である (『内鮮一体』1940年1月: 87)。

33.労働者階級出身の日本人入植者の不安定な生活と、ブルジョア階級の入植者たちとの価値観の違いを明らかにしたトッド・A・ヘンリーの研究 (2013: 16)と、ジュン・ウチダの被植民者朝鮮人と都市階級の日本人の中間に位置する植民者の流動性とパラノイアに関する研究は、植民地政策という枠組みの中にある植民者・被植民者または様々な出身階級の植民者間の人種差や感情の複雑さを示唆してくれる (Uchida 2008: 45-47)。

34.スユン・キムの研究 (2009)は、植民地のエリート階級や朝鮮人作家が思い描いた、植民者・被植民者間の親密性への欲望と不満を考察した好例である。

35. この現象は、現地女性を利用して家族秩序を再分配した、ヨーロッパ諸国による東南アジア支配と対照的である。ストラーによると、19世紀から20世紀初頭にかけて、オランダ人などのヨーロッパ入植者男性は、東南アジアの女性と頻繁に親密な関係を持ったという。熱帯気候と多様性に富む先住民の文化は、ヨーロッパ男性たちを開放的にし、現地女性との関係に肉体的・精神的な癒しを求めさせたのであった。1880年代にインドネシアに入植したヨーロッパ人男性の約半数が、アジア人女性を内縁の妻としていた。東南アジア諸国が、入植者と現地女性の愛人関係に寛容だった理由は、植民地政府が経済的な恩恵を期待したことと、入植者の滞在が長期化したことに関係する(Stoler 2002: 48-51)。

36.田中英光の『愛と青春と生活』(1947) は、作者が1935年4月から1937年2月まで日本統治下のソウルに滞在した際の経験に基づいたものだが、田中はこの作品の中で、1930年代の日本人入植者の生活の様子と、現地人を排除した「純日本人」の家族の設立を描いている (Tanaka [1947] 1984: 125-227)。

37. 沢井理恵の自伝によれば、彼女の母は植民地朝鮮に住んだ経験があり、当時のソウルは「日本人のための京城」と化しており、入植者たちはあたかもまだ東京にいるかのように日本語を話し、着物を着て、日本的な生活を続けていたという (Sawai 1996: 44-47, 70-73)。

38.ある記録によれば、カネコという日本人の主婦は、自分の雇った朝鮮人家政婦に家事能力がなく、態度も悪かったという経験を一般化し、「道徳心に欠ける朝鮮人女性たちは日本人によって教化されるべきだ」と主張したという (Kim 1941: 66-70; Ooya 2006: 77)。

39.ある研究の中で、植民地朝鮮にかつて住んでいた五人の日本女性のインタービューが紹介されているが、朝鮮人家政婦に関する記憶も言及されている。それらの入植者の家族は現地のコミュニティとほとんど交流しなかったものの、四人までが自分の家に朝鮮人の家政婦がいたと述べており、そのうちの二人はオモニーと親しい関係にあったと語っている。特に注目すべきは、一人の日本人女性が、病弱だった母親の代わりに世話をしてくれた朝鮮人家政婦に、特別な愛着を感じていたと証言してることである (Tabata 1996: 29-85)。遠い昔の記憶が、恣意的に編集されがちだという事実は、考慮しなくてはならないが、それでも、オモニーたちにとって、雇用者男性やその息子よりも、妻や娘との方が容易に親しい関係を結ぶことができたであろう可能性は否めない。

40. メアリー・ルイーズ・プラット (1992: 8-9) の提唱する「接触地帯」という概念は、植民者と被植民者のつながりを「圧倒的な主従関係」としながらも、そこに一種の共存・交流・相互理解・相互依存を見出すものである。筆者は本論において、植民者と被植民者間の親密な遭遇からの身体的・生理的乖離を解釈するために、この概念を援用している。この親密性からの身体的・生理的乖離は、組織的政策や思想信条の範疇外にありながらも、植民者と被植民者双方が互いに抱く、緊張感と嫌悪感を内包した感情を露呈するものである。

41. 1953年に発表された梶山の「虹の中」という短編は、日本人男性が韓国の街を何気なく歩いているだけで感じる情緒不安を描いている (Kajiyama 2000: 106)。

42.日本統治下朝鮮の日常生活における植民者と被植民者の遭遇に関してはクォンの研究 (Kwŏn 2008) を参照。

43. 湯浅克衛の短編「望郷」(1938) は、入植者一世たちが植民地で富を蓄積し、その資本で日本に不動産を購入することを切望していた様子を描いている (Yuasa [1938] 2007: 113)。また、この作品が描く別の問題は、結婚に関するものである。それは、入植者たちが、自分の息子を内地出身の女性と結婚させたがる傾向にあったために生じた、植民地で生まれ育った日本人女性の結婚難問題である (Lee 2008: 87-88)。入植者が縁戚関係を通じて内地とのつながりを持とうとした背景には、日本帝国崩壊への不安と、崩壊後に内地との縁故が重要になるであろう考えた人々の思惑がある。

44.植民地朝鮮への望郷を描く、湯浅克衛のそれとは対照的に、小林勝の作品は、引揚者による植民地への望郷を固く否定し、植民地政策という帝国主義によって擁護された暴力とトラウマを美化しがちな、同時代の日本人を強く非難している (Hara 2011: 267-268)。

45.フロイトは「不気味なもの (the uncanny)」を「もともと慣れ親しんでいたのに時間の経過とともに異質に感じられるもの」と定義している (Freud 1997: 217)。

46.現代日本の著名な詩人・作家である森崎についての情報を提供してくれたカン・シンジャに感謝の辞を述べたい。

47.強者の思想やエリート階級の覇権に従属せざるをえず、強者の思想を前提とする言語システム・言説体制によって常に歪曲されているサバルタンの意識や声についてはスピヴァクを参照 (Spivak 1988; 1998: 272-73)。

48. ロザリンド・C・モリスは「被抑圧者の立場には、純粋さや賞賛に値する価値はなく、そこにあるのは単なる―これは抑圧という悪を軽視する意味ではないが―抑圧のみである」と述べている (Morris 2010: 8-12) 。また、モリスは、解釈を扱う社会科学の分野では、ジェンダーと結びついたサバルタンの主体性考察をより有意義なものにするために、サバルタンの「失われた声」を取り戻すというよりも、「失われたテクスト」を取り戻す事のほうが先決だと主張し、それが「被抑圧者の抵抗、無意識の抵抗、また、時に行為主体などと呼ばれるものを見出し、それに光を当てることにつながる」と述べている。