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書評 アリソン・アレクシー&エマ・E・クック編『親密な日本: 親近感と葛藤のエスノグラフィー』(Book Review Intimate Japan: Ethnographies of Closeness and Conflict ed. by Allison Alexy and Emma E. Cook)

本文は以下の書評の日本語訳である: McLelland, Mark. Intimate Japan: Ethnographies of Closeness and Conflict ed. by Allison Alexy and Emma E. Cook.” The Journal of Japanese Studies 46.1 (2020): 286–291.

*引用の際は、原文のページ番号を参照のこと

マーク・マクレランド「書評 アリソン・アレクシー&エマ・E・クック編『親密な日本:親近感と葛藤のエスノグラフィー』」

翻訳者:シュミット堀佐知

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『親密な日本』の編者が述べているように、「親密感 (intimacy)」は学術研究のテーマとして近年よく扱われるようになってきたのものであり、その事実は、この言葉をタイトルに含む書籍や論文が増えてきていることからも明らかである。日本における親密な人間関係を扱う研究書としては、本書は決して先駆者ではない。例えば、リーバ・ファイアーの『Intimate Encounters: Filipina Women and the Remarking of Rural Japan』(2009)、ゲリー・リュープの『Interracial Intimacy in Japan: Western Men and Japanese Women, 1543-1900』(2003)、そしてゲネロ・カストロ=バスケスによる『Intimacy and Reproduction in Contemporary Japan』(2017) などがなどが既に出版されている。また、これまでの研究対象は、異性間の親密性が中心であったが、同性間の親密な関係を扱うものも、顕著になってきている。日本における女性同士の親密性を扱う文献には、少女文化の研究書も含まれている。20世紀初頭の少女雑誌・小説の分析に始まり、今世紀のBLコミュニティやBLファン活動の考察にいたるまで、少女文化研究の成果はトモコ・アオヤマ&バーバラ・ハートリー編『Girl Reading Girl in Japan』(2011) に詳しい。

日本語で発表される研究においても「intimacy」がキーワードになってきているようだ。例えば、小山静子・赤枝香奈子・今田絵里香による『セクシュアリティの戦後史: 変容する親密圏・公共圏』(2014) の英語の副題は「Intimate and Public」なのである。しかしながら、評者が取り上げる『親密な日本』は、占領下の日本 (1945~1952) における異性愛関係への考え方の変化から、2000年初頭のメディア表象分析中心の研究まで、半世紀にもわたる、日本人の親近感とその変化を扱っている点において、優れている。また、20世紀後半を通じての、同性間の親密さ (特に女性同士の友情と恋愛) の表象もよく分析されている。

『親密な日本』の編者は、その序章の中で、英語の先行研究の中で扱われてきた、さまざまな「親密性」という概念と「intimacy」を表す日本語のことばを考察する。しかし、現代に生きる人々のエスノグラフィーの多くがそうであるように、この序章は親密性という概念が、20世紀という流れの中でどのように変化してきたかというような解説には乏しい。また、クィア・ゲイ・トランス・バイというアイデンティティを持つ人々に関わる親密性の考察も、十分とは言えないだろう。異性愛の枠組みを超えた関係性を扱った章は、既存の男女二項対立に当てはまらないと感じる日本人が使うようになってきた、Xジェンダーという性カテゴリーに関する、S. P. F. デールの「ジェンダーアイデンティティ・欲望・親密性」のみである。一冊の論文集に、すべての義務を負わせることはできないものの、最近、東京のいくつかの区や地方自治体が、公的な同性パートナシップ制度 (もちろん同性婚ほどの権利拡張でははないが) を導入しつつあることを鑑みると、この論集が、同性間の親密性への詳細な分析を欠いているのは残念である。本書を読むと、バブル崩壊後の経済的な不安の中で、日本の異性愛者たちが、夫婦の絆を再考すべく、常に頭を抱えているということが、よく伝わってくるが、日本のレズビアン女性やゲイ男性という、バブル崩壊に関係なく、常に不安定な生活を強いられてきた人々が、どんな苦労をしているかについては、寄稿者たちは多くを語ってくれないのだ。

川原ゆかりの「教室外の生徒たち」という章は、90年代のティーンエイジャーの性愛に対する意識を扱うもので、東京とその近郊にある、四つの高校に通う子供たちが共有する言説を分析する。この論文の長所は、生徒たちの社会階級と性別が、いかに彼ら・彼女たちの「性愛のルールブック」の内容選択に影響を与えるかという点に注目しているところである。川原の調査は、進学校に通う生徒ほど、現在の人間関係をあまり重視しない傾向にあり、進学・就職への展望が、子どもたちの性行動に歯止めをかけているという事実を明らかにした。

川原が調査した、生徒たちの性愛に関する言説には、避妊・望まない妊娠・人工中絶に対する不安が、はっきり読み取れる。避妊というテーマは、シャナ・フルハン・サンドバーグの論考「現状維持と恋人への信頼/依存」でも扱われている。周知のように、日本では、避妊経口薬の使用は制限されており、避妊手段の主要なものは、コンドームと膣外射精である。日本人女性が、これらの避妊手段に対し、どう感じているのかを調査した結果、避妊経口薬について詳しい女性が、非常に少ないことが明らかになった。サンドバーグの調査に参加した女性のうち、唯一の避妊経口薬使用者は、ピルを入手することの大変さ (定期的な婦人科の検診を要する) を強調した。日本では、避妊は男性の責任と見られることが多いのだが、サンドバーグが話を聞いた女性の中の数人は、膣外射精を含む避妊行動を、恋人男性の「頼りがいと愛情深さ」の指標だと考えていることが分かった。つまり、これらの女性は、自分の恋人が、避妊をきちんと遂行することが「思いやり・意思疎通」の証であるととらえているのだ (p. 64)。

先行研究によると、日本では「夫婦」を実用的で、時にはビジネス取引のような人間関係と見る傾向にあり、配偶者は第一に「子供を産んで育てるためのパートナー」だと考えられることが多いという。ローラ・デールとビバリー・アン・ヤマモトによる「恋愛と性愛―恋人から夫婦関係へ」という論文を読むと、そのような考えが、現代でも変わってないことがわかる。「夫婦間の恋愛感情は、あまり期待されず、もし恋愛感情が継続すれば、それは幸運なおまけ」(p.  75) なのである。日本における結婚観の主流は、夫婦の役割分業を重視するもので、夫は一家の稼ぎ手であり、妻は「主婦業というよりは母親業」(p. 76) を担う存在とされる。デールとヤマモトは、この論考の中で、母親業ではなく、男性との恋愛や性愛を優先する「非典型的な女性」に焦点を当てている。その「非典型的な女性」たちの中には、「あえて結婚できない男性と恋愛関係を持つことによって、妻に課される、家族の世話やその他の様々な責任という、忌むべきものを、回避しつつ、異性との親密感を維持している」(p. 83) 人もいるという。

しかしながら、21世紀日本における夫婦の愛情表現に関する、アリソン・アレクシーの考察が示すように、旧来の男女役割分業を規範にする夫婦関係は、パートナーシップに基づく婚姻関係の形に移行しつつあるようだ。この「どんな愛の言葉をささやく?」と題された章によれば、現代の日本人の若者は、親の世代ほど言葉による愛情表現に抵抗を感じていないそうである。アレクシーの調査では、2000年以降に出版された結婚や恋愛のアドバイス本は、パートナーへの愛情を定期的に言葉で表現することをこぞって奨励しているという。これは「一世代前の夫婦関係とは真っ向に対立する観念」と言えよう (p. 93)。筆者が指摘するように、「男は外、女は内」という、強固な男女役割分業に基づく、戦後ベビーブーマー世代の結婚観は、夫婦間のコミュニケーションの欠如を生み、お互いに依存する関係でありながらも、夫婦別々の社交的・情緒的な活動を営むという状況をもたらした。その反省として、近年、夫婦や恋人である男女間の言語コミュニケーションが推奨されているわけであるが、これは日本人 (特に男性) にとって「言うは易く行うは難し」であるようだ。

桑島薫は「主人はいい人―私を殴らないときは」と題された章で、家庭内暴力 (DV) という深刻な問題を扱っている。筆者が示すように、離婚という不名誉なレッテルと、シングルマザーの経済的自立困難という構造的な問題のため、暴力的な夫と別れられない女性が多く存在しているのだ。この論考の最も重要な指摘は、DV被害者のためのシェルター職員が、女性の様々な感情や葛藤を整理する手助けをし、その結果、「『自分への愛情』だと思っていた夫の行動や言動が、実は管理・束縛に過ぎない」(p. 124) ことに気づくことがしばしばあるという事実である。

親密性という観念につきまとう、強固な男女役割分業は、エマ・E・クックのよる「権力、親密性、非正規雇用」の中でも分析されている。クックは、日本人男性が結婚に期待するイメージは、女性のそれよりも「伝統的」な傾向にあるという。しかし、長引く経済不況下において、非正規雇用労働者として働く男性にとって、男女役割分業は「厳しい現実」以外の何物でもない。「男性性の象徴」(p. 131) の中心的な部分を担う、「一家の稼ぎ手」としての役割を果たすことが不可能な状況は、一部の男性にとって、は大きな劣等感の原因にもなりうるからである。クックが述べているように、女性にとっても、経済不況は深刻な問題である。賃金労働によって、家計への貢献を期待される妻たちは、帰宅してからも、夫に労りという「感情労働」を提供しなければならないからである。

本書所収の論文は、女性の経験や感情に焦点を当てているものが多いが、エリザベス・マイルズの「男として生きることと、親密感という負担」は、親密性と男性性形成の関係を分析している。他の寄稿者と同様、マイルズも、一般的な日本人夫婦間の男女役割分業 (とくに「男は外」という考え方の重要性) と、男性が経済不況下で感じるプレッシャーについて言及しているが、この章ではさらに、一家の稼ぎ手としての重圧に上乗せされた、「コミュニケーション能力」(p. 157) という男性への期待についても考察している。つまり、父親の世代とは違い、現代日本の男性たちは、かつて女性の役割だとされていた「感情表現」という役割を分かち合わない限り、「理想的な」夫候補として、結婚市場を生き残ることが難しくなってきたのである。

また、大人の異性愛関係を扱った研究が多数を占めるのに対し、キャサリン・E・ゴールドファーブの章は、養親と養子の親密性について書かれている。ゴールドファーブの主要な議論は、以下のようなものである。近代以前の日本では、養子縁組が一般的かつ頻繁に行われていた。しかしながら、戦後、医学的な理由付けなどにより、親子間の血のつながりを特に重視する言説が市民権を得、それにつれて、養子縁組に対する偏見が助長されてきた。そして、日本人の中には、他人の産んだ子を愛することは不可能だと信じている人もいる。

日本文化という枠組みを超て、日本人と中国人、日本人とオーストラリア人の異性愛カップルの親密感を考察しているのは、この本の最後の二章である。チグサ・ヤマウラの「世間並みに仲良しな夫婦関係を目指す」と題された論文は、日本人男性と中国人女性を対象とした結婚斡旋サービスを扱っている。ヤマウラが掘り下げるのは、商業的な有料サービスにすぎない結婚斡旋所が、「愛」という近代の要請に応えなくてはいけないという、困難な現実である。また、ダイアナ・アディス・タハンの「日本人・オーストラリア人家族の絆、葛藤、経験」という論文は、日本人の妻とオーストラリア人の夫の間に生じがちな、文化上の誤解について考察している。顕著な誤解の一つは、日本文化における (特に添い寝によって培われる) 母子密着に関するものである。親子が川の字になって寝るのは、自立精神を重視するオーストラリア文化に反する慣習であり、夫婦間の親密感の障害にもなるとされる。

この論集の最後を飾るのは「フィールドワークを振り返る」と題された章である。その中で、寄稿者の全員が、エスノグラファーの直面する苦労―調査対象者たちに、私的生活の詳細を他人 (研究者) に語らせる事の難しさ―について語っている。『親密な日本』の重要な功績は、エスノグラフィーという研究方法によってもたらされたと言っても過言ではない。編者の二人がこの最終章で書いているように、「エスノグラフィーというメソッドを介したすべての研究は『親密性』を要請する」(p. 236) のである。研究者の一人一人が、調査対象者と深い信頼関係を結び、非常に個人的で、時には心の傷に関わる経験まで語ることのできる環境を整える努力をしたからこそ、この本は、読者の心をつかむことを可能にしたのである。調査に協力してくれた、様々な社会階級・年齢・文化背景をもつ男女の多様な考え方や行動は、「均質的で典型的」な日本人像などというものが存在しないことを、我々に再確認させてくれる。援助交際やセックスレス夫婦、草食系男子など、センセーショナルな日本人・日本社会のトレンドを常に追い求めている西洋の商業メディアの現状を鑑みると、この点は、繰り返し強調するに値する。『親密な日本』は、貴重な研究論集である。これは、日本に住む人々の複雑で重層的な現実を詳細に語ってくれる本であり、日本研究者やジェンダー・セクシュアリティ研究者の必読書となるべきものである。