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書評 カレン・M・ゲルハート編『近代以前の日本における女性・儀式・儀式道具』(Book Review: Women, Rites, and Ritual Objects in Premodern Japan ed. by Karen M. Gerhart)

本文は以下の書評の日本語訳である: Suzuki, Yui. Women, Rites, and Ritual Objects in Premodern Japan ed. by Karen M. Gerhart.” Monumenta Nipponica. 74.1 (2019): 85–90.

*引用の際は、原文のページ番号を参照のこと

ユイ・スズキ「書評 カレン・M・ゲルハート編『近代以前の日本における女性・儀式・儀式道具』」

翻訳者:シュミット堀佐知

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私たちは、女性たちの声が昔からずっと、21世紀の現在でも、かき消されたり無視されたりし続けているという事実に直面している (評者がこれを書いているのは2018年の暮れだが、つい数か月前にブレット・キャバノーが最高裁判事として議会の承認を得る直前、クリスティ・ブラジー・フォードがキャバノーによる性的暴行被害について証言し、それが一笑に付された件がすぐに思い出される)。非常に説得力のある本書の序章の中で、バーバラ・ルーシュは、古代西洋では強姦に遭った女性の舌を切り取ることによって被害者に沈黙を強いる慣習があったという、メアリー・ビアードの言葉を引用しており、さらに「現代の私たちにはもっと『文明的な』強制的沈黙の術が用意されている・・・それは示談の際に署名させられる秘密保持契約書と口止め料の小切手だ」と述べている (p. x)。ルーシュはまた、本書が考察する前近代や現代の日本においても、古代西洋と同様に女性たちの声が軽んじられてきたことを指摘する。

カレン・M・ゲルハートによって編まれた『近代以前の日本における女性・儀式・儀式道具』は歓迎されるべき十篇の論文集である。本書は、これまで無視され、忘れ去られ、あるいは故意に抑圧されてきた古代・中世日本の女性たちの声と人生をすくいあげ、日本研究分野で、これまでほとんど検討されてこなかった主題に関する論考を扱っている。ゲルハートにとって女性・儀式・儀式道具という三つのテーマは常に大きな関心の対象だったというが、彼女は「ジェンダー・ポリティックス、女性の身体、階級、物質文化」(p. 1) などの、より大きな文化的関心への言及も決して怠ってはいない。儀式・儀式道具・女性 (女性信者と女性性を持つ神仏) に関する学際的な考察を提供する本書は、物質文化研究・儀式研究・美術史を織り合わせたゲルハートの既刊の二冊の跡を継ぐものとして、納得がゆく (注1)。

この本は8世紀から19世紀までの約1000年間に渡る日本の歴史を振り返っている。十篇の論文は「家庭と出産に関わる儀式」「女性と仏教儀式/絵画」「女性仏教信者と法要」「女性施主・肖像画・儀式」の四部に分けて所収されており、そのすべてがなんらかの形で、日本の美術と宗教儀式という分野における、ジェンダーと女性の行為主体について触れている。

昔の女性たちの宗教行事への関与を詳しく知る上で難しいのは、儀式に関わる活動が記録されている現存の史料 (宮廷日記・歴史書・医学書・仏教入門書など) がたいてい男性の手によるという事実だ。序章でも説明されているように、女性が自身の日常を定期的に記録する場合でも、詳細は省かれることが多いのだ。しかしながら、十人の寄稿者たちは記録文書の乏しさという難関をそれぞれ克服し、宗教行事の主催者や信仰の対象となる女性神仏の姿を通して、近代以前の日本に生きた女性たちの人生を垣間見せてくれている。

例えば、貴族女性が宗教行事において果たした役割に光を当てた、二篇の興味深い論考がある。

一方は、第一章となる編者自身の論文だ。ゲルハートはその中で、一家が新住居に移る際に、陰陽師の指示で行う「新宅移徒 (しんたくいし)」という複雑な陰陽道儀式を紹介し、平安貴族女性たちが積極的にその儀式に関与していたという事実を考察している。他方はエリザベス・モリッセイによる第九章である。モリッセイは14世紀の絵巻『石山寺縁起』と11世紀の『栄花物語』を分析し、円融帝(959~991; 在位969~984) の女御で一条帝 (980~1011; 在位 986~1011) の母でもある東三条院 (962~1002) が、石山寺有数の女性施主であり、この寺の秘仏である如意輪観音に深く帰依していたと論じている。東三条院の時代、石山寺は貴族女性の間で、霊験あらたかな場として広く知られていた。特に石山如輪観音は、様々な苦しみを取り除いてくれる、ご利益のある菩薩として人気があった。モリッセイは『石山寺縁起』の特定の場面を綿密に分析することにより、東三条院が、如輪観音の奉られている御堂を飾るための、高価な白色の几帳を布施として提供し、その功徳で自分自身の救済を実現しようとしたことを実証している。

貴族女性の生活は、何らかの形で、多少は記録に残されたものの、庶民女性に関する記録は極端に少ない。その困難を乗り越えたのはシェリー・ファウラーである。ファウラーは第六章で、女性巡礼者たちが、「西国三十三所」と呼ばれる観音信仰の霊所で参拝の際に購入した、紙の護符 (お札) を分析している。紙製で大量生産される護符は、霊所に奉られた神仏の姿が描かれている、巡礼記念物の一つだが、安価であることから、どのような社会階層の人々にも手の届くものであった。そして、17世紀後半以来、仏教寺院の運営は、積極的な信者の勧誘と、このような商品の売り上げなしには成り立たなくなっていたのだ。西国三十三所巡りは、観音菩薩を奉っている33か所の寺院を参詣することである (33というのは、観音が衆生救済のために現れるとされる化身の数である)。ファウラーによれば、寺院で販売されているお札には、その霊地に奉られている観音の姿や、観音霊験譚の有名な場面が描かれており、女性巡礼者たちは護符を所有することにより、秘仏である観音と結縁をつなごうとしていたのだという。また、これらのお札は、巡礼者に旅の経験を思い出させたり、周囲の人に巡礼を促したりすることにより、お札を見るものと、信仰の対象である秘仏のかけ橋のような役割を果たしている。参拝者は、巡礼が完了した際に、護符を寺院に返却するか、亡くなった時に一緒に墓に入れてもらうことになっていたが、これだけたくさんのお札が現存するということは、この習慣が常に守られていたわけではないことを示唆している。その理由は、人々が、護符を巡礼記念として手元に置いておきたかったからだけではなく、自分と結縁を持った菩薩の姿が描かれているお札には、有難いご利益があると信じていたからなのである。

チャリ・プラデルによる第四章は、悔過 (けか) と呼ばれる法隆寺の行事を考察している。これは一年に一度、金堂に奉られているヒンドゥー教と仏教の神・吉祥天女に捧げられる儀式である。悔過は、一月八日から十四日の期間に、新年の法会 (現在では修正会 [しゅしょうえ] として知られる) の際に行われるもので、前年に犯した道徳的逸脱行為の穢れを清めてくれ、その他にも様々なご利益があるとされる。プラデルが指摘するように、法隆寺は聖徳太子 (574~622) との深いゆかりと、17世紀に建立された荘厳な神仏像の一群 (銅像釈迦三尊・薬師如来坐像・木造四天王像など) のおかげで、日本史・日本美術史の分野において、非常に重要な位置をしめている。ゆえに、学校の教科書を含む日本史・日本美術史関係の出版物は、法隆寺と言えば上記の神仏像を中心に取り上げのるが常であった。修正会が法隆寺のもっとも重要な儀式の一つであるにも関わらず、銅像釈迦三尊の右後ろにひっそり立つ木造吉祥天女像は、これまでほとんど注目されてこなかったのである。

第二章では、アンナ・アンドリーバが別の女性神を取り上げている。それは、妊娠出産を扱う日本で最初の天台経典『求子妊胎産生秘密法集』で中心的な存在に置かれる訶梨帝母 (かりていも; 別名 鬼子母神) である。江戸期から明治にかけて、木版印刷技術の発達により、訶梨帝母の版画が安価に大量生産された結果、多くの女性たちは、産婦と新生児を守ってくれるという御利益を信じて、そのような版画を購入したという。訶梨帝母は、吉祥天女と同じく、仏教に取り入れられたヒンドゥー教の女性神であるが、この二柱の神は、気質や容貌においては正反対だと言える。吉祥天女が経典の中で。美しく優雅な乙女として描かれるのに対し、仏に帰依する以前の訶梨帝母は、他人の子を取って喰らう恐ろしい夜叉であった。しかし、訶梨帝母はその恐ろしい形相にも関わらず、『求子妊胎産生秘密法集』の中では、女性の不妊を和らげてくれる、霊験あらたかな信仰の対象として生まれ変わったのである。

ナオコ・グンジの論文 (第三章) は、高倉帝 (1161~1181;  在位1168~1180) の皇后・平徳子 (建礼門院; 1155~1213?) が、自分自身の安産と、のちに安徳帝 (1178~1185; 在位1180~1185) となるわが子の安全を願うために主催した、一連の宗教行事に関する詳細な考察である。徳子と未来の東宮のために催された、大掛かりで経済的負担も大きい宗教儀式は、多種多様であり、また、時に相反する政治的思惑をもつ人々から成る、共同体の要請に応えるという目的をはらんでいる。本書所収の多くの論考と同様に、この章は、宗教儀式がいかに政治に深く根差した側面をもつのかということを示唆する。例えば、グンジは徳子の養父であり義父でもある後白河法皇 (1127~1192; 在位1155~1158) と実父・平清盛 (1118~1181) を例にとり、宗教行事の施主や主催者たちの人間関係や、損得勘定に関する思惑を明らかにする。つまり、徳子の安産祈願の儀式が行われた時期に、清盛と後白河は、深刻な緊張関係にあったにも関わらず、二人が徳子の安産儀式の主催者として協働したことは、いかに互いの人的・政治的団結が、彼らの圧倒的な権力の維持・拡大に不可欠であったかということを物語っているのだ。

全ての文化に共通する儀式のうち、人々の暮らしや困難に最も関連が深いのは、生死にまつわるものであろう。ゆえに、生殖に関わる儀式を扱った先述の二章に加え、四章までが女性・儀式・死の物質文化を考察していることは、納得がいく。誰もが、いつかは死に直面しなければいけない。しかし、人類は、それぞれの先住文化に根付いた、様々な方法によって、亡くなった人々の遺産と記憶を、死者とその子孫のために保存してきた。人の肉体は物理的な死に逆らえないものの、特定の「物」や道具が、死者の形見や象徴となって、彼らの遺産を次世代に継承してくれるのだ。その好例は無外如大 (1223~1298) である。パトリシア・フィスターによる第七章は、この著名な尼僧の彫刻や肖像画に注目し、それらが特別な人々の命日や供養の際、どのような役割を果たしたかについて分析する。また、モニカ・ビースは (第八章) は、如大がかつて所有していた袈裟が、彼女自身を象徴する物として、いまでも日本の禅コミュニティーにとっての重要な遺産であることを、詳細に考察している。以下に詳述するセルフとグラスマンの章も、死者とある種の「物」との密接な関係について書かれている。

セルフ (第十章) は、裕福な大名として知られる京極高次 (1560~1609) の正室・常高院 (浅井初; 1570~1633) の肖像画を大型の掛け軸に仕立てたものを紹介している。セルフによれば、16世紀から17世紀にかけて、肖像画は埋葬儀式の際、死者の魂を乗り移すという役割があったという。そして、それらは葬式のあとで慰霊堂の中に収められた。

そして、毎年命日になると、家族や家司が肖像画に供え物を献上する。そうすることにより、儀式の主催者は、死者の冥福と往生を祈るとともに、仏教の功徳を積むことができるのである。通常は、死者の配偶者や子などの近親者が、そのような肖像画を作らせることになっていたが、常高院の夫は早くに亡くなっており、子供もいなかった。セルフの論文は、常高院が逆修 (ぎゃくしゅ; 人が生前に自分の冥福を祈ること) という仏事を主催したのちに、高価な帛画 (はくが; 絹布に描かれた絵) の自画像を製作させたことを取り上げることにより、女性の死と来世に関わる自己決定に、光を当てている。筆者はさらに、肖像画の詳細な分析を通して、常高院が自分自身を、夫の京極家の一員ではなく、生家である浅井家の一員として描き、確固とした個人のアイデンティティと社会身分を貫いたことを提示する。

グラスマンによる第五章は、平安時代の埋葬について検証している。中心となるのは白河上皇 (1053~1129; 在位1073~1087) の寵妃であり堀川帝 (1079~1107; 在位1087~1107) の母である賢子 (1057~1084)である。最愛の中宮が27歳という若さで崩御した際、悲嘆に暮れていた白河上皇は、小さな銅製の五輪塔を作らせ、その中に賢子の遺骨を納め、それをさらに醍醐寺円光院の下に埋めたという。これは元来、僧侶か尼僧が亡くなった時にのみ行われた慣習で、非出家者として初めて、賢子の遺骨が五輪塔に納められたことは、注目に値する。賢子の遺骨を納める場として、天皇家とゆかりの深い醍醐寺が選ばれたことも見逃せない。グラスマンによると、平安時代、女性の遺骨は、父方の家族に属す重要な遺産だと考えられていたという。ゆえに、本来であれば、賢子の遺骨は、彼女の生家である源家の墓か、賢子を養女として成育した藤原家の墓に入るべきものであった。そのような慣習に反して、白河上皇があえて寵妃の納骨場を醍醐寺とし、その結果、東宮の出自を天皇家だけに寄与したということは、男性から見た女性の遺骨に対する価値観が、変化しつつあったことを物語っている。

白河上皇は、賢子の遺骨を円光院に納めただけでなく、醍醐寺と法勝寺にもそれぞれ新たな仏堂を建立したり、複数の寺院に寄進を行ったりすることにより、最愛の妃を継続して追悼した。藤原北家による摂関政治が、ようやく衰退の兆しを見せる中、白河がとった一連の行動の裏に、天皇家の政治権力を再強化する意図があったことを、グラスマンは決して否定していない (p. 203)。しかしながら、帝が、自分の妻の死を際限なく嘆き悲しんだという史実や、「賢子の遺骨が醍醐寺の内院に奉られているという事実は、白河の深い愛情と彼女の死に対する真摯な哀悼の表現であることは間違いない」 (p. 215) というグラスマンの言葉は、新鮮に感じた。

本書は、前近代日本の専門家だけではなく、物質文化に興味のある人すべてが読むべき本である。

我々が意識しているか否かに関わらず、人間は、慎重に構築された象徴的な序列と自己を重ね合わせることによって、この世における自らの地位を表明し、人生のさまざまな分岐点や困難を乗り越えるものなのだ。本書で分析されている、多様な儀式道具 (器類・護符・衣類・几帳・彫刻・絵画・骨壺など) は、すべて特別な意味を寄与されることにより、「象徴的な序列」を表象するという役割を担う。人々は、それらを通して、世界を具体的・物質的に理解することが可能となるのだ。

儀式道具は、単なる象徴ではなく、共同体の構成員間や、彼らの行動圏における社会的人間関係を、明らかにしてくれるものでもある。これまでも、物質文化の研究者たちが論じてきたように、「物」は人間の行為主体の媒介という役割を持つ。そして、次第に、その道具自体が、社会的アイデンティティや、人々や社会に特定の意味を付与するという力を発揮するようになるのだ (注2)。

皇妃の存在が、遺骨や納骨堂を媒介として再興されたり、尼僧の社会的アイデンティティが、その形見である袈裟のおかげで、何世紀も人々の意識の中で生き続けたりすることが、その好例である。本書に所収されている論文は、前近代日本という文化的・歴史的文脈における女性・儀式・儀式道具を扱っているとは言え、これらが探ろうとしている大きなテーマは、人間の行動に関する、一般的な傾向に光を当てるものであり、読む者の好奇心・想像力・内省を促してくれるような、特定の文化や時代性を超越する研究ばかりである。

脚注

1.Karen M. Gerhart, The Eyes of  Power: Art and Early Tokugawa Authority (University of Hawai‘i Press, 1999); The Material Culture of Death in Medieval Japan (University of Hawai‘i Press, 2009).

2.Janet Hoskins, “Agency, Biography and Objects,” in Handbook of  Material Culture, ed. Chris Tilley et al. (London: Sage Publications, 2009), pp. 74-76. 物が持つ社会的行為体・社会的アイデンティティとしての役割に関する物質文化理論については、以下の文献を参照のこと:Alfred Gell, Art and Agency: An Anthropological Theory (Oxford University Press, 1998); Igor Kopytoff, “The Cultural Biography of Things: Commoditization as Process,” in The Social Life of  Things: Commodities in Cultural Perspective, ed. Arjun Appadurai (Cambridge University Press, 1986), pp. 64-91.