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ディレクターによる序文

『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』第2号「日本の身体観」刊行によせて

シュミット堀佐知

はじめに

2021年の夏に『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』の第1号「家族と労働」を世に送り出してから、瞬く間に2年の月日が流れ、このプロジェクトにもさまざまな変化が訪れました。当初は2人で始めたプロジェクトでしたが、現在は、私が単独のディレクターとして運営しています。本業の合間を縫っての作業なので、蝸牛の歩みではありますが、やっと第2号「日本の身体観」(CorpoRealities in Japan)をお届けできることになりました。今回は、文学・演劇・映画・漫画などにおける人物の「肉体」「姿」「装い」やロボットの「本体・パーツ」の表象、そして人々が社会で生きていく上で体感・体験する「からだ」に纏わる声・視点・イメージを紹介します。これらの声・視点・イメージを通して、私たちが「自己」と「外観」の複雑で多義的な関係性に気づき、考えるきっかけになればと思います。

人間は世の中のあらゆる事象に意味や価値を付与したがる生き物であり、私たちは他人に遭遇した際、その未知の誰かがどのような人間であるか、無意識のうちに憶測してしまいます。その憶測の根拠は主に視覚情報です。先進国で育ち、よい教育を受けた私たちは、人を見かけで判断しないという社会性を身に付けます。そして、容姿(顔・体型)に基づく差別、racial profiling (特定の人種グループを標的にした捜査や、特定の人種グループを事前に排除する雇用のシステム)、passing(トランスジェンダーの人や、複数の人種グループに属する人が、特定のグループのみに属すよう判断されること)の問題について学んだりします。しかしながら、そのような問題への意識を高めようとする努力は、私たちが自分や他人の身体性に過度な注意を払ってしまうという、逆説的な結果ももたらしています。

自己身体観を考える上で重要なポイントは、私たちは、自分の「真の姿(外見)」を知り得ない、ということです。従って、私たちの抱く自己身体観は、他者が私たちに直接的もしくは間接的に送って来る、さまざまなフィードバックを元に形成されているのです。私たちは鏡を見なければ、自分たちの顔を見ることはできませんし、たとえ鏡を使ったとしても、その顔は左右が逆になっているだけでなく、誰かにカメラを向けられた時のように、多少緊張感を伴った表情をしています。言わば、私たちの顔と名前は、単なる私たちの所有物ではなく、他者の利便ために存在しているものだと言えます。顔写真は名前の身体版で、名前は顔の言語版で、この2つが一緒になると、私たちの「身分を証明」してくれる便利なツールになります。でも、実際は、私たちは「顔プラス名前」だけの存在ではありません。

現代社会に住む私たちは、「からだ」というものについて、全く相反する2つの考えを抱いています。まず、私たちは人間の体を神聖なもので、常に尊厳を以って扱い、保護されるべき存在だと考えています。人間と身体を同一視する考えは、英語のsomebody, anybody, nobodyという語にも表れています(cf. something, anything, nothing)。その一方で、私たちが肉体を賤視し、グロテスクなものだ考えていることも事実です。肉体は、より高尚な精神・知性・倫理観などを納めるための「容器」とされ、自己を身体と同一視することは憚られます。「理知的」で「洗練された」精神が、「直感的」で「原始的」な肉体を所有・操縦しているようなイメージを抱く人は多いかもしれませんが、肉体が精神を所有・操縦していると考える人は非常に少ないでしょう。

日本古典文学の作品を読むと、登場人物の年齢・性別・社会階級・性格などは、たいていその容貌や衣服の描写によって読み手に伝えられています。昔の人々は、実際に、自らの衣服や髪形や装飾品などによって、自分たちの身分を明示していましたし、他者の気質・知性・能力などを外見で判断することが悪いなどとは、まったく思っていませんでした。「卑しい人は、卑しい外見をしている」だけでなく、「あの人は外見が卑しいから、内面も卑しいに違いない」という循環論法も文学作品から読み取れます。

「あの人は外見が~だから、内面もそうだ」をさらに一歩進めると、「外見を変えると内面(本質)も変わる」になり、実際、前近代の人々は、そのように考えていたようです。例えば、昔の貴族女性は出家をしても「尼削ぎ」と呼ばれるおかっぱ頭で済ませる場合が多く、頭を剃る人は少数派でした。しかし、そのような高貴な出自の尼さんでも、臨終の直前に剃髪をする人は、少なからず存在したようです。その背後にあるのは「変成男子」という概念で、成仏が難しいと考えられていた女性でも、男性に変身すれば、成仏できると考えられていたようです。女性が男性に変身する方法は、ずばり、髪を男性用の髪型に変えることで、記紀神話にも、アマテラスや神功皇后が、「みずら」という男性の髪型を結うことによって、一時的に男性性を獲得した様子が書かれています。臨終間際の尼さんたちが真似た髪型は、「坊主頭」つまり完全剃髪です。そして、女性の剃髪を「男に成す」と表現する記録も残っています。

もう一つ例をあげると、「大人になる」という概念があります。現代社会では、法律で(かなり恣意的に)定められた特定の年齢に達すると、誰もが一夜にして未成年者から成人に変身します。法律上の「未成年・成人」の区別は二者択一ですが、通常は、子どもから大人へのゆるやかな変化は、生物学的発達であると考えられています。法的身分と生物学的発達に共通しているのは、人間は生きている限り、本人や家族の意思とは無関係に、不可避的に成人する、という考えです。しかし、前近代の日本では、「大人」というのは、通過儀礼によって獲得する地位でした。儀式に参加し、その過程で髪型・化粧・衣服・名前などを大人のそれに変え、子どもは成人とみなされたのです。逆を言えば、「河原者」と呼ばれる、社会の周縁に属していた人々は、通過儀礼を経ることはなく、白髪の老人になっても「わらわ」「童子」と呼ばれる、子どもでも大人でもない身分の人々でした。

日本古典文学を研究していると、現代・西洋的な身体観が普遍的ではないことがよくわかります。そこで、「からだ」の問題をより学際的に、より広い歴史的なスパンで考える機会をもちたいと思い、2021年12月、ダートマス大学にて“Embodiment: Representations of Corporeality in Texts and Images of Japan”というワークショップを開催しました。パンデミックのため、主賓である早稲田大学の兼築信行先生・日本女子大学の坂本清恵先生と、遠方からの発表者はズームでの参加でしたが、過去にダートマスで開催した対面でのワークショップに決して引けを取らない、実り多き会になったと思います。兼築先生は短歌創作ワークショップを担当して下さり、受講者に作歌の歓びを味わう貴重な機会を与えてくださいました。坂本先生は「文楽人形のハギとスネ」という非常に興味深い基調講演をしてくださいました。その映像は、講義内容の英訳と一緒に本サイトに掲載されていますので、是非、授業などでも活用ください。

坂本先生の基調講演以外にも、このワークショップから派生したコンテンツがあります。1つはジョン・ホルト氏(ポートランド州立大学)による論文「『わたしは真悟』:楳図かずおの描く日本(人)の肉体と機械仕掛けのボディ」です。ホルト氏は、モンローと呼ばれる、残虐性を秘めた工業用ロボットが、人間の自我にも似た意識に目覚めるプロセスを描写する際、楳図がどのようにその機械仕掛けの「ボディ」に迫り、表現するのかという点を、さまざまな理論を応用しつつ、解説してくれています。

もう1つは、ワークショップの半年後に行われたズーム女子会の会話に基づく「日本研究女子鼎談――シュミット堀佐知、キンバリー・ハッセル、ジュナン・チェンによる日本研究をめぐる『よもやま話』」です。ワークショップでは、ダートマスの卒業生であり、2022年秋からアリゾナ大学の助教授に就任したキンバリーさんは、現代日本における女性たちのSNS文化についての論考を発表してくれました。そして、キンバリーさんのプリンストン大学院の後輩であるジュナン・チェンさんは、大島渚の『東京戦争戦後秘話』の分析を通じて、映像を媒介した都市空間と60年代後半~70年代の日本における女性性表象の関係について論じてくれました。この鼎談の中で、私たちはワークショップを振り返りつつも、話の中心は、ワークショップ以来の近況です。アメリカのアカデミアという、精神的・肉体的タフさが要求される環境において、大学院生・助教授・准教授という立場の差はあれ、マイノリティ女性が経験しがちな、さまざまなチャレンジについて、オープンに話しています(非建設的な愚痴ではありませんよ)。この会話を通じて、もともと親しかった3人の絆は一層強いものになったように感じます。是非ご一読を。

ワークショップ関連ではない、「身体観」に関するエッセイも2本所収しています。1つ目は、同志社女子大学の吉海直人先生による「垣間見」に関するものです。現代日本語でも、「垣間見る」という動詞として馴染みのある概念ですが、吉海先生の考察によれば、垣間見を文学作品の重要な装置に昇華させたのは、かの紫式部なのだそうです。平安時代の貴族女性は几帳や御簾や扇子で常に顔を隠していたので、男性がそのような姫君の姿を物陰からちらりと見ただけでも、大事件だったのかもしれません(もっとも、平安時代の貴族が実際に「垣間見」を行っていたかは疑わしいので、あくまでも物語の装置として考えるのがよいでしょう)。しかしながら、現代人にとっては、垣間見は「プライバシーの侵害」「のぞき」など、否定的な評価を招きがちです。吉海先生によれば、特に海外からの留学生に、垣間見の美的感覚を分かってもらうのは難しいのだそうです。吉海先生は既に『「垣間見」る源氏物語―紫式部の手法を解析する』(2008)という研究書を出版なさっているので、興味のある方は、是非そちらもご覧いただきたいのですが、垣間見を正しく理解する上で一番重要なポイントは、前近代日本において、「見る」という行為は一種の呪術的な力を秘めており(これは発話行為が言霊を発動させるという考えに似ています)、垣間見もそのような伝統の流れを背景にしている事でしょう。

2つ目は、2019年に『モニュメンタ・ニッポニカ』誌に掲載された、ワイジャヤンティ・セリンジャー氏の研究論文の日本語訳「無血の合戦?:『平家物語』における血穢と血の表象」です。セリンジャー氏は、中世・近世日本で成立した多くの軍記物語の中でも、『平家物語』が例外的に血への言及を避けているという不可解な現象を取り上げ、深い考察をもとに、その謎を繙く説を展開しています。セリンジャー氏の評論のような、優れた人文学研究が出版されても、多くの日本の研究者にとって、英語の学術論文を入手したり読破したりするのは、簡単ではありません。今回、「無血の合戦?」を本サイトで提供できることになり、とても嬉しく思います。翻訳を許可して下さった、『モニュメンタ・ニッポニカ』のベティーナ・グラムリヒ=オカ編集長にも御礼申し上げます。

『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』第2号に寄稿が予定されていたにも関わらず、実現できなかったエッセイがあります。それは、去年の暮れに急逝した、マークブックマン氏のものです。そのエッセイとペアで掲載する予定だった、ブックマン氏の日常を記録する一連の写真は撮影を終えており、本サイトには、それらの写真を、カメラマンのピーター・ウェルド氏によるキャプションと、ウェルド氏が寄稿してくれた短い文章と一緒に掲載することにしました。私は文学通信から今秋出版予定のバイリンガル・エッセイ集『なんで日本研究するの?』の企画・編集を担当しており、マークさんはそちらのプロジェクトにも参加して下さっていました。以下は、私が執筆した『なんで日本研究するの?』のエピローグの一部です。

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最後に、残念なお知らせがある。「アメリカ人障害者として日本で暮らすこと」を寄せてくれたマーク・ブックマン氏は、本書の完成を待たず、2022年12月16日、帰らぬ人となった。マークと最後に会ったのは、2022年の8月である。その日私は、ゆりかもめの「お台場海浜公園」駅に降り立ち、東京オリンピック・パラリンピックから1年が経過してすっかり閑静になった駅周辺を見回しながら、彼のアパートを訪れ、「スプリングボード・ジャパン」ウェブサイト上での企画について打ち合わせをした。窓を閉め切っているにも関わらず、蝉の声がアパート一面に鳴り響き、屋内で座っているだけでも汗が滲んでくるような猛暑日だったことと、マーク、カメラマンのピーター・ウェルド氏、マークの介助者であるネパール人男性と私の4人の打ち合わせが、英語と日本語の混ざった会話で行われたことをよく覚えている。まさか、この日が、マークとの最後の対面になるとは、夢にも思っていなかった。この日から約4か月後、マークは31歳の若さでこの世を去ってしまった。さまざまな人々の期待と尊敬と憧れを背負い、研究・教育・社会運動のすべてにおいて、若きリーダーとして活躍し、家族と友人たちに深く愛されていた彼の急逝は、悔やんでも悔やみきれない。

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『スプリングボード・ジャパン・トランスレイツ』第2号「日本の身体観」を完成させるにあたり、多くの人々の力を借りました。コンテンツを提供して下さった方々はもちろん、翻訳や編集、その他の作業を補助して下さった、以下のみなさまにも、厚く御礼申し上げます(順不同・敬称略):

ワイジャヤンティ・セリンジャー
ポーラ・カーティス
弘實紗季
ジェイソン・セイバー
陳元鎬
ロイ・シュミット