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『わたしは真悟』:楳図かずおの描く日本(人)の肉体と機械仕掛けのボディ

ジョン・ホルト

はじめに

楳図かずおの名作ホラー漫画『わたしは真悟』(1982-1986)は、近藤悟と山本真鈴という子どもたちが、不気味なほど的確に予測された、寒々とした近未来日本を、必死に生き抜く姿を描いている。そこに広がるのは、工場労働者たちがロボットに取って代わられ、職を失った人々の絶望が家族の崩壊と世代間の心理的乖離を引き起こしている世界だ。楳図が本作品のために創造したキャラクターは、アメリカを象徴する、かの大物女優マリリン・モンローの等身大切り抜きを、その本体にくっつけた、人懐っこいロボットだ。彼女は、悟と真鈴と出会い、交流を続けているうちに、人工知能を発達させ、いつしか自我のようなものを芽生えさせる。しかし、その自我が、人間のそれに近づけば近づくほど、彼女は、自分の欲望のままに環境を変えてしまおうとする。その結果、大切な友だちであるはずの、人間の子どもたちを危険な目に遭わせてしまうのだ。

本稿は、夏目房之介が考案した漫画分析法の一つ、「圧縮と開放」という概念を応用しつつ、『わたしは真悟』の分析を試みる。この分析が明らかにするのは、楳図が本作品を通して、身体(人間の肉体であれ、ロボットの無機質な「ボディ」であれ)の成熟を視覚化しているという点と、すべての自我の芽生えは身体に根差しているという事実を、楳図が如実に描いているという点だ。楳図の逆説的かつ一見残酷な論理によれば、人間が精神的に成熟するためには、まず想像を絶するほどの身体的苦痛を経験しなければならないのだ。楳図は、子どもたちとロボットの、中間的で不完全な身体を、視覚的な枠組みに据え、絵と言葉が融合した漫画ならではの手法で、身体が肉体や機械仕掛けの「ボディ」を超越し、意識となって現れる様子を描く。楳図の絵とコマ割りは、読者が混じり気のない無機質な世界に入りこみ、そこで自分たちの日本社会における<居場所>に対する新しい形の存在意識を見出し、その後、再び帰還するための空間を作り出している。このダークファンタジーの読者が、『わたしは真悟』に救いを見出すための唯一の方法は、登場人物たちが、自分たちの不完全な<日本人の身体>を最終的に受け入れるのを確認し、そうすることによって、荒廃したかのように見える世界にも、まだ希望が残っていると気づくことであろう。

楳図の漫画は、一見、そのような人間の存在に関わる問題とは、無縁であるかのようだ。しかしながら、楳図は『わたしは真悟』の中で、ロボットが自我を芽生えさせ、その自我が成熟していく様子を読者に伝えるという至難の業を成功させている。本稿の主張は、楳図の成功の秘訣は、モンローの身体描写(顔ではない)にあった、という点だ。視覚的テクストである漫画において、個々の作品の現象学的視点は、身体描写やフレーミングによって決定づけられる。登場人物の顔が、身体性表象の核であることは明らかだが、不思議なことに、楳図の作品に関して言えば、キャラクターが自我に目覚めたり自分の身体を自覚したりする様子は、手足の描写を通して表象されることが多いのだ。楳図かずおは、もっとも人間離れした体の持ち主が、もっとも意外な場所で自我を獲得する過程を、ホラー漫画という、もっとも意外なメディアを通して表現したのである。

『わたしは真悟』の驚くべき出発点と方向性

1982年から1986年まで『ビッグコミックスピリッツ』(以下、『スピリッツ』)誌上で連載された『わたしは真悟』は、大ヒット作品となった。もちろん、楳図は既に大人気作家だったのであり、どのような媒体でも連載のヒットは確実であった。にも関わらず、漫画史研究者の呉智英によれば、『真悟』は楳図と『スピリッツ』の編集者にとっての、大きな賭けであったという。『真悟』は『スピリッツ』の創刊号から連載された作品で、小学館には、『真悟』目当ての長期的読者を開拓する狙いがあった。しかし、当時、『スピリッツ』は月2回の発行であったため、ライバルの週刊誌に読者を奪われてしまう可能性は否めなかったのだ(Kure 2000:326-327)。結果的には、これは杞憂に過ぎなかった。『わたしは真悟』というタイトルの意味が、連載開始の2年後まで明らかにされなかったにも関わらず、『真悟』は、多くの読者を夢中にさせる作品となったのだ(Kure 2000:326)。

「わたし」の正体が秘められたまま、楳図は『わたしは真悟』の最初の3分の1を費やして、小学6年生の少年・悟の物語を描く。これは、本作品の最初のアーク(全7巻のうちおよそ最初の3巻にあたる部分)であり、このロボット狂いの少年と両親という、中流階級家庭の平凡な生活を追う形で展開する。悟の家族は、絵に描いたような1980年代日本の典型的な家庭なのだが、父親の職場である機械部品工場が生産向上化をねらって、「(ビビアン・)リー」と「(マリリン・)モンロー」と呼ばれる2台のロボットを導入したことで、彼らの生活は一変する。

導入後、数日も経たないうちに、工場主は、このロボットたちさえいれば、簡単に生産ノルマを達成できることに気づく。アメリカ映画界の大女優の等身大切り抜きを貼り付けることによって、不格好なロボットをいくらか人間らしく見せようという工場長のブラックユーモアは、工場員たちにはピンと来ないものであり、そんな愚鈍な彼らは、ロボットのメンテナンスを任された悟の父親を除き、すべて解雇されてしまう。父親が担当者になったおかげで、悟はロボットたちに近づくという特権を得る。そして、悟はリーとモンローの生産性をさらに向上させるべく、彼女らの視覚・聴覚の精度を高める訓練を始め、やがて2台のうち、より感受性の強いモンローと、コンピュータを通してコミュニケーションが取れるようにまでなるのだ。彼女も悟の顔と姿を認識できるようになり、大文字の<他者>である悟を客体とみなすことで、モンローはついに主体性に目覚めるのだった。

ちょうどその頃、悟は近隣の学校に通う真鈴という、日本人の母とイギリス人の父をもつ女の子と知り合う。真鈴の両親は近いうちにイギリスへ移住することを決めていたのだが、それを知らない子どもたちは親しくなり、悟は真鈴を工場に連れて行く。やがて真鈴も、モンローとコミュニケーションを取る術を習得し、モンローも真鈴の姿を認識するようになる。

このように、『真悟』の序盤は、悟と真鈴そしてモンローと悟の関係が、どのように発展していくのかを、充分に時間をかけて描写する。その中で、悟は子どもなりにも、真鈴という<他者>との関係性を通して成長していくのだが、自らを恋人同士として認識しつつある子どもたちが2人だけで会ったり、一緒にモンローのいる工場に出かけたりすることは、次第に困難を極める。迫りくる別離を前に、悟と真鈴とモンローは、それぞれ無謀な行動に走る。早熟な子どもたちが互いに抱く、高揚した感情を察知したモンローは、自分も2人の<他者>と離れたくないと感じ始め、そのような人間的欲求が芽生えたロボットは、人間らしい意識を抱くようになる。しかしながら、ここで読者を待ち受けているのは、楳図ならではの恐ろしい展開だ。明らかに善意に溢れたモンローは、大切な友だちの恋の成就を助けたい一心で、次々と危険で残忍な行動に走り、最終的には、悟と真鈴の命すら脅かしてしまうことになる。彼らの恋の行方は、舞台が日本とイギリスに分かれたあとも描かれ続け、『真悟』全般を通して語られるテーマではある。しかし、悟と真鈴の恋物語は、『真悟』の最初の3分の1に当たる部分で既に最高潮に達する。それは、悟と真鈴が、自分たちの気持ちを真の愛へと昇華させるための唯一の方法だと信じて行う「儀式」の場面である。子どもたちは、衆人環視の中、東京タワーのてっぺんから、劇的な跳躍を図るのだった。

頂点を目指す、覚束ない足元

『わたしは真悟』における最初の山場で、モンローは子どもたちに、もし2人が「結婚」して「こどもをもつ」ことを望むなら、東京タワーのてっぺんから飛び降りなければならないと告げる。地上333メートルの高さからジャンプすれば、親たちの支配から奇跡的に逃れ、悟と真鈴の「こども」であるモンローの三人家族を維持することができる、と言うのだ。モンローを完全に信頼しきっている2人は、自分たちが飛び降り自殺をしろと言われていることには気付かない。楳図かずおは、読者に恐怖を体験させるためには、一切の手加減もしない。彼の作品に登場するキャラクターの中で、最も可愛らしく無垢な者たち(たいていは子ども)さえも、彼の手にかかると、残酷な方法で皆殺しにされたり、想像を絶するような残虐な行為に走らされたりするのだ。

早熟な愛で結ばれたこの小学6年生のカップルは、東京タワーから飛び降りることによって、自己認識と行為主体の芽生えを証明しようとする。『真悟』の中で、この儀式は「飛び移り」(「飛び降り」ではない)と呼ばれているが、実際にその跳躍がが実行される時点まで、悟と真鈴は、読者と同様、自分たちがどこへ向かって「飛び移る」のかなど、知る由もなかった。この究極の一歩を踏み出しさえすれば、大人たちのように「結婚」し、三人家族のままでいられると信じた彼らは、無謀な「飛び移り」を決行する。地上からこの一部始終を、恐怖の形相で眺めている親たちからすれば、悟と真鈴は飛び降り心中を決行しようとしているようにしか見えないのだが、子どもたちの目的はもちろんそうではない。そして、悟と真鈴の固い信念を表現するために、楳図が用いる手法は、子どもたちの言葉や顔の表情ではなく、その足に注目するものだ。

図1に示したように、一連の繰り返しのコマにおいて、楳図は4本の足と踏み台にされたランドセルを描くことで、子どもたちの存在論的な飛躍を表現する。このように、楳図作品の世界では、登場人物が真の自我やアイデンティティに目覚める過程は、精神ではなく、身体を通して実現される。なぜなら、頭の中にある思考は、身体を通して行動に移されて初めて現実のものとなるからだ。楳図は『わたしは真悟』の中で、早熟なカップルの劇的な自己認識の証明を描きつつ、日本社会と漫画の将来に関する不気味なほど的確な予告を暗示しているようだ。

図1.悟と真鈴の「飛び移り」場面(Umezu 3:44)

『真悟』が漫画史に与えた影響も見逃せない。この作品は、現在の漫画のトレンドだけでなく、来る青年漫画という物語の形式を、当時すでに先取りしていたのだ。呉は、『真悟』を、日本漫画史の「第5期」を代表する作品として位置づけている。それは1979年から1986年までの、「ヤング」をタイトルに持つ一連の青年漫画誌と4コマ漫画の絶世期である。『慎吾』は「学園恋愛ものではあるが、それが小学生の恋愛であり、しかもそれが高度科学文明の不気味さとつながるという意表を衝く設定の大ドラマ」だったという(Kure 1997:196-197)。ライバルの『ヤングマガジン』(講談社)が高校生ぐらいの年齢層を、『スピリッツ』と『ヤングジャンプ』(集英社)が高校生以上の青年読者をターゲットにしていたことを考慮すると(Kure 1997:197)、『スピリッツ』が、悟と真鈴のような小学生を中心に展開する作品の掲載を決断したことのすごさがよく分かる。

『慎吾』が漫画業界の先駆けとなったもう一つの要因は、その圧倒的なスケールである。この作品は、充分に起こり得る可能性のある近未来を描いているが、そこは、アジアへの嫌悪観とジャパン・バッシングが蔓延し、日本の工業は機械化への一途をたどり、家庭崩壊はさらに深刻化し、人々が生き甲斐を見い出せないような世界だ。小学館の『スピリッツ』は、編集長・小西湧之助のクリエイティブなコンセプトが先駆けとなったおかげで成功した、と夏目房之介は書いているが、その先見の明というのは、「マンガに中間小説(大衆小説と純文学の中間)領域を作る」という事業であった (Natsume 2018:78 [Natsume 2021: web]) 。『真悟』は、2人の小学生と不格好なロボットを主人公にした話であるにも関わらず、非常に洗練された物語であり、筆者が以下に論じるように、哲学的な高みに達した作品だ。いわば、デカルトのコギト「我思う故に我あり」を、より個人的な「我思う故に我は真悟」に言い換えたような作品なのである。悟と真鈴の「飛び移り」のエピソードも、この長編作品全体のクライマックスではないものの、『真悟』の最初の山場において、自己実現達成の可能性を秘める登場人物として、敢えて小学生のカップルを選んだという事実は、楳図の奇才的創造性を読者に知らしめるに充分であったと言えよう。

楳図の圧縮と開放のコマにおける、モンローのコギトの瞬間を読む

『わたしは真悟』の視覚的デザインと構成は非常に発達したもので、1950年代に作家活動を始めた楳図の業績における、ある種の頂点を示唆している。楳図は、ほぼすべてのページを6~8コマに分割し、『アメイジング・スパイダーマン』(1962-1966)や『ドクター・ストレンジ』(1961-1965)」で知られる、楳図とは同世代であり、彼と同様にコミック界の巨匠として知られるスティーブ・ディッコが確立した、3X3のグリッド・スタイルを彷彿させる(Wolk 2009:239)。楳図のスタイルに特徴的なのはコマ割りだけではない。彼は、たった数秒間という、ごく短い時間の経過を表すため、似たような絵を連続して並べ、瞬間から次の瞬間への移動を表現するというシンプルなテクニックを頻繁に活用する。この「瞬間から瞬間へ」の移動という概念は、コミック学の第一人者スコット・マクラウドが、コミック学研究書の嚆矢『Understanding Comics』 (1993)の中で名付けたもので、彼によれば、このようなコマ構成は、プロットを発展させる上では、あまり効果を発揮しない。曰く、「コミックのコマというものは、継続しているはずの時間と空間をバラバラの断片にしているにも関わらず、[…]『閉合の法則』(一部を見て全体を理解するというコミック解釈の文法)によって、読者は継続的で統一されたリアリティを心理的に構築する[…]本当の意味で、コミックというメディアは、つまり『閉合』にかかっているのだ!」(McCloud 1993:67) 。しかしながら、先述したように、楳図は「瞬間から瞬間へ」と移動するコマを有効に活用する作家で、瞬間の連続をとらえた『真悟』のコマには、とても美しく、計算され尽くした、恐ろしい「何か」がある。そして、それらは、マクラウドが理論化した6種類の閉合形のうち、「タイプ1」にあたる「瞬間から瞬間へ」だけでなく、「タイプ5」つまり、ムードや感情を強調する「局面から局面へ」でもあると考えたほうがよい(79)。楳図は、瞬間と雰囲気の両方をとらえる一連のコマを通して、未知の主体が覚醒し、ゆっくりと読者の眼前に現れてくる過程を、巧みに表現するのだ。『バットマン』コミックの中で主人公が「バーン!」「ドーン!」などという大袈裟な擬音語とともに描かれる、お粗末な戦闘シーンとはまったくレベルが違うのである。

注意しなくてはいけないのは、作品の中で人物の哲学的な存在性を描くために楳図が用いる手法を分析するには、マクラウドの提唱する枠組みでは不適切な場合もあるという点だ。マクラウドの理論はコミックのコマからコマへの繋がりの関係性を重視しているが、日本の漫画の場合、1頁すべてのスペースを使ってひとつのコマを描いたり、さらに見開きの両頁を使ってひとつのコマを描いたりするため、マクラウド式のカテゴリーは必ずしも有用ではない。楳図研究者で『楳図かずお論』著者の高橋明彦は、マクラウド理論の応用を試みているが、その際にマクラウド理論の不十分な面を、「タイプ7」という独自の閉合カテゴリーを提示することによって補っている。それは高橋が「反復」と呼ぶ閉合型で、楳図に特徴的な反復的閉合は、マクラウドの「タイプ1」とは異なり、時間の経過がゆっくりかつ主観的であり、「それが動作型ではなく瞬間型として描かれるかぎりにおいて、ある種のニュアンスや心理を含む」のだと言う(Takahashi 2015:243)。言い換えれば、楳図は作品世界の心理的緊張感を高め、読者を登場人物の主観的立場に置くために、ほぼ複写のような繰り返しのコマを使う。しかしながら、筆者は、「タイプ7」という新しい閉合の型を追加する高橋の方法には、懐疑的である(Holt 2019:web)。また筆者は、マクラウドの6つの閉合タイプを劇的に改革し、より流動的で画期的な漫画の読みを可能にしようと主張してきた(Holt 2022:51)。

マクラウド式分析が、『真悟』における存在論的自我の目覚めを検証するに不十分であっても、心配には及ばない。なぜなら、漫画研究者・夏目房之介が生みだした別の理論を用いることで、『真悟』に描かれる、啓示的瞬間の視覚的表現を、より詳しく解説することができるからだ。夏目は1990年代に「マンガ表現論」と呼ばれる漫画分析法を他の研究者とともに開発し、漫画の創作と読解に関する新たな理論を提供した人物だ。彼は著書『マンガはなぜ面白いのか―その表現と文法』の中で、1960年代の漫画家が、いかにコマを一度「圧縮」させ、その後、左右、上下、または両方向に「開放」させるという技術を生み出し、機能させているかという点について解説している。まず、コマが縮小する過程では、読者にコマの中の人物に接近したような印象を抱かせる効果がある。カメラがズームインし、読者が人物の顔や目に近づくことで、コマは閉塞感のある空間になり、見る者に圧迫感や緊張を感じさせるという仕組みだ。

『真悟』の中で、モンローの意識が覚醒する様子を描いた重要なシーン(図2)では、楳図はコマを8回繰り返し、圧縮させることで、読者をこのロボットの心理に接近させる。『真悟』の中で、モンローのマニピュレータに焦点を当てたコマが繰り返されるシーンは、非常に重要な意味を持つ。なぜなら、彼女の機械でできたボディ、特に人間の手のような機能を持つマニピュレータは、彼女の思考プロセスそのものを表現しているからだ。静止画像を連続させることにより、楳図はずっしりとしたロボットアームと、ひんやりとしたマニピュレータの両方に命を吹き込むのだ。一連のコマが圧縮され、

図2.モンローの覚醒(Umezu 3:67)

スピードが加速するにつれて、読者はモンローのボディを構成するパーツが意識を持つという、信じがたい光景を目の当たりにする。楳図の作品において、登場人物の行為主体は、まず自己認識という形で表される。たいていそれは、主体の身体の一部が何かしらの行動を起こすという、自己意識の獲得の表明なのである (悟と真鈴が「飛び移り」という、足を使った行動で大人になる意思を表明した先述の例も同様である)。読者は、ロボットのボディに焦点を合わせた一連のコマが、被写体にどんどん接近していく過程で、これらのコマに挿入された独白が、自己に目覚めたロボット・モンローのそれであることに気づく。

夏目によれば、連続したコマが人物の姿を圧縮していく際、読者の心理は被写体となる人物の心理に同調させられるという。コマがページの下方向に圧縮されると、重みとして感じられ、また、読者は圧縮されたコマを速く読む傾向にあるため、読むスピードも加速するのだ。また、漫画家はたいてい、ページの上部又は中ほどでコマを圧縮させ、下段で開放する(図3と4)。その時、圧縮のために生まれた緊張が解き放さ

図3. 圧縮と開放

 

図4.石ノ森章太郎の『ボンボン』を例にとった圧縮と開放

れ、読者はしばらく漫画の中の出来事から多少心理的距離を置き、客観的に観察することができるのだ。図2の圧縮されたコマを見ると、楳図がおそらくこのあとで開放するだろうということが見て取れ、実際、図5のコマAで開放が起こっている。言い換えれば、われわれ読者はまずモンローの思考の内部に入って行くのだが、ここでは読む者に緊張感や恐怖などの感情を呼び起こすだけでなく、加速感に圧倒されるような気分にもさせられる。そして、わたしたちがロボットの思考に同化しそうな不安感にかられる瞬間、開放のコマが現れるのだ。

緻密に計画された一連の圧縮のコマに続いて開放が起こるとき、われわれは漫画の醍醐味や真の面白さを体感することができるのだという(Natsume 1997:147)。熟練の漫画家は、圧縮された小さなコマのテンポをコントロールすることができるのだが、その直後にコマが水平方向に伸びると、読者の視野が左右両方向に大きく開くため、そこで急な開放感や解放を感じるのだ。その際、横に広がったコマの中に人物を小さめに描くことで、水平的な解放感はさらに強調されるという(Natsume 2021:web)。

図5.図2の圧縮に続く頁。最初のコマが「開放」にあたる (Umezu 3:68)

図2にあたる部分に続いてページをめくると、最初のコマが、工場のがらんとしたスペースに佇むモンローの姿と一緒に開放される (図5)。モンローの長い独白は「と言います」という伝聞を表す述語で終わる。ここに閉合が起きているわけだが、どのタイプだろう。マリリン・モンローの等身大切り抜きは、よりはっきりと描かれているが、その顔の一部は焼け焦げている。このように、読者であるわれわれは、この開放のコマにとどまり、何が起きているのかを客観的に眺めるよう促される。モンローはロボットで、しかも、少しダメージを受けているとは言え、マリリン・モンローの奔放なセクシュアリティのそのボディにくっつけたロボットだ。明暗のコントラストはあるものの、真に明らかなものはない『真悟』の世界において、この開放によって読者は小休止しし、じっくりと内省し、熟考する猶予を与えられる。実際、それはまさにモンローが、自分の生い立ちを伝聞、つまり他者に属する語りとして提示することで、読者に立ち止まってその意味を考えさせようとしているのだ。この場面は、主体が実存の危機に直面した瞬間を描いているのだ。

漫画家はたいてい人物の顔を中心に圧縮を行う。時には、目や耳など、より細かい身体の部位にクロースアップすることで読者と人物の思考をシンクロしようとする。モンローの場合、楳図はロボットの頭部ではなく、にせもの、つまり女優マリリン・モンローの顔に、そして工場のコンベアベルトに乗って流れる機械部品に接近する。これらの部品はモンローの延長と言えるもので、モンローの思考はこのような機械によって組み立てられたのだが、彼女のボディと独白は圧縮されたコマの中で統合される。モンローが意識を持っていることの証拠は、そのボディによって証明されるのである。夏目の漫画創作理論が明示しているように、意識の覚醒は、人気のない無機質な工場というコンテクストで起きていることに気づいて初めて理解されるのだ。この漫画のタイトルに現れる「真悟」の正体はまだ明かされていないが、その代わり、読者はロボットが思考し始めたことに気づく。この時点では、『わたしはモンロー』というタイトルの方がふさわしかったかもしれないのだが。

モンローの独白シーン、つまり『真悟』が始まってすでに700頁ほどを費やし、やっとたどりついたこの2頁にわたる場面は、「奇跡は誰にでも一度おきる。だがおきたことには誰も気がつかない」という、この漫画のキャッチコピーを表すものだ。ここで言う「奇跡」というのは、モンローが自己意識に目覚めることである。図2にあるように、楳図はモンローの独白を8つの似通ったコマに分け、展開させる:「わたしが意識を持って/いちばん初めに/感じた/ことは/モーターを組み立てている/自分自身だったと/言います」(Umezu 2000:67-68)。この場面のすべてのコマは、いかにも楳図らしいスタイルで描かれている(楳図に多大な影響をうけた伊藤潤二のファンは、伊藤のトレードマークである『うずまき』に出てくるような渦に気づくだろう)。ここで、各コマの中にさらに描かれた円形の枠は、楳図がもともと少女漫画作品の中で使い始めた手法で、コマの中の人物にさらに焦点を絞る一種の小型望遠鏡の役割を果たす。このぼやけた輪郭を持つ、不安定な焦点が楳図作品で果たす機能には2種類ある。ひとつは、他の誰かが被写体を離れたところから眺めていることを表し、もうひとつは、被写体自身が自分自身について回想していることを表すことだ。モンローが独白を伝聞として語っていることを考えると、彼女はかなり先の未来の時点から、当時のことを読者に向けて説明していることがわかる。しかしながら、彼女が自分の原点を他の誰かから伝え聞いた話として語っていることは、彼女が完全に独立した「個」ではないという事実を表している。実際、この世に完全に独立した「個」は存在せず、自己というものは、常に他の誰かを媒介して初めて意識されるのだ。では、この漫画の登場人物を媒介する〈他者〉とは、一体誰なのであろう。われわれもまた、実体を持たない無己であり、モンローという実体のないロボットの覚醒という奇跡をたまたま眺めているだけのものなのであろうか。

視界と言葉の枠からの解放

楳図かずおは、『恐怖への招待』というエッセイ集の中で、『真悟』の執筆を振り返り、誰かが外部からこの作品世界を観察しているような雰囲気を持たせるために、特に語りのスタイルにこだわったと解説している。モンローが自分の自我の芽生えを伝聞として語っているように、楳図は、目には見えない力が『真悟』の登場人物の一挙一動を見ており、読者がその視線を感じられることを意図してこの作品を作っている。いわく「『わたしは真悟』をナレーション形式にしたのは、自分自身をまた自分自身が見ているという感じにしたかったから」(Umezu 1996:61)。モンローが正方形の枠線の中にある、小型望遠鏡のファインダー状の円のさらに内側に描かれている理由は、まさにこれなのだ。ナレーターのモンローは、過去と現在の自分が一体化してゆく様子を眺めており、小型望遠鏡のファインダーは、彼女の変化しつつある自己認識をとらえている。四角い漫画のコマという枠は〈他者〉による媒介を表し、丸い「視界の枠」は伝聞の内容を表す「言葉の枠」なのだ。被写体を眺めている誰かの視界と言葉の枠は、フレームの中に存在するキャラクターの意思とは関係なく、物語を形作っていく。しかし、モンローは物理的に存在しているロボットの本体(ボディ)を所有することによって、コマという、漫画世界の普遍的・人智的・圧倒的な力に抵抗することができるのだ。この時点では、モンローのボディの所有権は、まだナレーターという姿無き人物(または読者)によって、完全には宣言されていないのだから。

これは、『真悟』の凄さと恐ろしさの原点のひとつだと思う。楳図は、読者のみなさん、あなたがたの思い通りにはなりませんよ、とほのめかす。また、モンローも、自分のボディを所有することで、読者のみなさん、私はどんどんあなたのような「ただの人」に近づいてきているんですよ、と暗示している。読者がこの不格好な殺人ロボットに感情移入し、自分と同一視する時、『真悟』の究極的な恐ろしさを身に染みて感じるだろう。登場人物と観客との関係性は共犯者のそれと化す。この工業用ロボットがどれほど醜く、恐ろしく、およそ人間とはかけ離れていても、それに構わず感情移入してくれる読者がいれば、それによってモンローの意識は本物になるのだ。

『ジェンダー・トラブル』の中で、ジュディス・バトラーは精神/身体という歴然とした二項対立だけでなく、(たいてい男性性をもつ)主体が(たいてい女性性を付与された)身体を回避するためのねじれた存在論的特権についても言及している:「
プラトンから始まり、デカルト、フッサール、サルトルへとつづく哲学の伝統のなかでは、魂(意識、精神)と身体の存在論的な区別が、終始一貫して政治的、精神的な従属関係や階層秩序を支えてきた。精神は身体を従属させるだけでなく、ときとして身体からまったく逃げおおせるという幻想をもつことすらある」(Butler 1990:17;Takemura 1999:37)。

先述の場面で、モンローは(おそらくバトラーも)、女性やマイノリティなどの社会的弱者にとって、男根中心主義的なシニファンの体系に組み込まれた、主体という特権的立場を取得することは、ほぼ不可能であることを理解しているようだ。モンローの独白の最後に来る「と言います」という伝聞表現は、われわれの世界を形作っている覇権勢力と、モンローのいる世界を掌握している「声をもつ主体」へと注意を喚起しているかのようだ(『真悟』の工場主がモンローのボディに、アメリカを代表するセックスシンボル的アイドルの切り抜きをくっつけたのも、偶然ではないはずだ)。バトラーは、「アイデンティティの脱構築は、政治の脱構築ではない。そうではなくて、それはアイデンティが分節化される条件を、政治的なものとみなすという事である。この種の批判は、フェミニズムがアイデンティティの政治として語られるときに、基盤主義的な枠組みを問題にするものである。この基盤主義の逆説は、それが表象・代表し解放したいと願っている、まさにその『主体』を前提とし、固定化し、束縛しているということである」と述べている (Butler 1990:201; Takemura 1999:260)。そして、このような基盤主義に根差した、誤った脱構築を避けるため、バトラーは「反復行為」をジェンダー規範やアイデンティティのカテゴリー、そして存在論という名の落とし穴に対抗しうる術の一つとして提案している。一連の反復行為を二重の枠の中におさめることにより、楳図はモンローに「まさにそういった構築によって可能になっている攪乱的な反復の戦略をとること――つまり、アイデンティティを構築するものでありながら、またそれゆえにその反復実践に異を唱える内在的な可能性を提示するような反復実践に、みずから参与し、それによって局所的介入をおこなう可能性を指示」(Butler 1990:201; 竹村 1999:258)させているのだ。

図6.マリリン・モンローの切り抜きを捨て去るモンロー(Umezu 3:302)

図6は、モンローが押し付けられた女性性を放棄している場面だ。ここでモンローは、狭い下水道のトンネルを潜り抜ける際、逃走の邪魔になるから、もしくは自己再定義の準備のために、ボール紙の切り抜きを、捨て去る。工場からの脱出、ゴミ捨て場への避難、そして過酷な天候からヤクザの銃撃戦まで、100頁にもわたる冒険を共にした、見るも馬鹿馬鹿しいハリウッド女優の切り抜きを、あっけなく放棄するモンローの姿は印象的である。切り抜きを捨て去る行為自体も、意味ありげな擬音語「バキ」と「バシャ」とともに、圧縮されたコマにまずは閉じ込められ、次に新しく自由になったモンローとともに開放されたコマに移行していく (図6の最後のコマ)。

図7.モンローが真悟に生まれ変わる場面 (Umezu 3:303)

図6にあたる右頁最後のコマから、図7にあたる左頁最初のコマに視線を移す際、読者はモンローの姿が反復して描かれていることに気づくだろう。違っているのは、「わたしは真悟」というロボットの独白が、左頁の最初のコマに追加されていることだ。読み続けていくとわかるように、「真悟」は元・モンローの最初の友だちである「真鈴」と「悟」の名から一字ずつ取り、自ら命名したものだ。そして、言うまでもなく、「真悟」は男性の名前である。これは、モンローが、異性愛者である「両親」への敬意も表しつつも、バトラーが提唱する「ジェンダー・トラブル」を自分なりの方法で行い、その行為を通して新しい自己を合成した瞬間だと言える。つまり、東京の下水道の迷路の中で、真悟は限られた経験や知識の破片をよせ集めて自分のジェンダーを再構築し、男根中心主義シニファンの仕組みという覇権に抵抗したのだ。

楳図かずおの『わたしは真悟』とジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』が時間的・地理的にかけはなれたものである。しかし、元・モンローが性別・身体・人類などのカテゴリーを当然視する制度に異議を唱え、独自の「ジェンダー・トラブル」を行うことは充分に可能である。さらに、『真悟』の世界では、常に「日本人とは何か」ということが問われているのだが、そもそも、日本人性を表象するカテゴリーの中で、自然で自明的なものなど存在するのだろうか。「メイド・イン・ジャパン」でありながらアメリカ人女優の姿をくっつけた工場の作業用ロボットは、「日本人」になりうるのだろうか。バトラーは言う:「言説実践の外側に行為体や現実が存在する可能性はまったくなく、行為体や現実に理解可能の資格を与えているのは、ただひとつ言説実践のみである。それゆえ課題は、反復すべきかどうかということではなくて、どのように反復すべきかということである(Butler 1990:203; Takemura 1999:259)。

開放か現状の繰り返しか

ここまで『わたしは真悟』の中で展開される反復について見てきた。身体・肉体・本体などの「からだ」を描写したコマを繰り返す楳図の手法は、「からだ」もつ者は、意識をもつこともできる、という我々の思い込みを疑問視させ、恐怖や不快感を感じさせるものだ。筆者は本稿の残りのスペースを使って、〈他者〉の身体とのつながりが、どのように共感という共同体の構築、もしくはその正反対の何かを生みだすのか、という問題についての考えを述べ、論を締めくくりたいと思う。

Eszter Szépがその研究書『Comics and the Body』(2020:15)の中で述べているように、共感という感情は、「時に共感する相手を見下すことになり、特権的な立場の人間の支配的地位と優位性を強化してしまう可能性」をはらんでいる。Szépの著書は主にノンフィクションの漫画を扱っているが、その主張の一つは、漫画というメディアがもつ本質そのものが、読者と漫画家の間に共感を生み出すか、もしくは互いに自分の脆弱性をさらけだすことにつながるという点だ。Szépは、上記の引用に見られるように、共感よりも脆さの方が望ましいという立場をとっている。脆弱性は「倫理的な他者との遭遇を可能にするが、漫画に関わる身体的な慣行が、脆弱性を演じる契機になるように、そのような遭遇が起こる場合もある」という(2020:9)。バトラーが著書『生の危うさ』の中で「共有された不安定性」と呼ぶ脆弱概念を援用しつつ、Szépは「漫画が、その芸術形式をまさに視覚化してくれる線によって、人物の経験する脆弱感を表現できるため、倫理的な他者との遭遇の場になり得る」と述べている(2020:22)。彼女は、漫画世界に描かれる脆弱性を読み取ることが、より良い共有倫理を生むと主張している。しかしながら、われわれは漫画世界において脆弱さと同様に重要な役割を果たす共感という概念を軽視すべきではない。工夫さえすれば、われわれは共感という概念を通しても、互いに誠実に向き合い、世界をより深く理解する方法について考えをめぐらせることができるのだ。レスリー・ジェーミソンは『The Empathy Exams』の中で共感をある種の対話だとして解釈している。

共感とは、ただ話に耳を傾けることではなく、耳を傾けるべき答えを引き出すための問いかけをすることだ。誰かに共感するには、想像力と同じくらいの探究心が必要であり、また、己の無知を自覚しなくてはならない。共感するということは、己の眼前に広がる文脈という地平線が、そのはるか方へと永遠に広がっていると気づくことだ...共感するということは、トラウマには「ここまで」という境界線などないと気づくことだ。トラウマはじわじわと広がるものなのだ(2014: 5)。

真悟(元・モンロー)は、旧友の悟に加えて、新しく「お友達」になった美紀という「ぐにゃぐにゃしたわけのわかんないもの」を探すべく、迷路のような下水道をくぐり抜けていく。そこで、新たな疑問が生じてくる。果たして、ロボットの真悟や得体の知れない美紀のような存在は、「人間」になることができるのだろうか。そして、なるべきなのだろうか。どうやら、痛みや孤独を分かち合うことで生まれた友情は、互いを「人間」として認める契機になりうるのらしい。これは、「誕生」「学習」に続く「意識」と題された第3のストーリーアークの終盤に描かれた、息をのむようなシーンの連続から読み取れることだ。

楳図の描く日本という世界で、本当の居場所を発見すべく、モンロー/真悟は自分のような異質な〈他者〉と共感しようとする。その〈他者〉というのは、真悟と同様に孤独と苦しみを抱えている美紀で、彼女は真悟が棲息する下水道の真上に当たる、悟の家族が以前住んでいたマンションの部屋に住んでいる。しかし、この美紀という名はしばらく明かされず、その間、彼女が姿無き声のみの存在として登場していたことは言及に値する。真悟と美紀はその異質な姿かたちと話し方の両方において、共通点が多い。工場を脱走して以来、永遠に孤独な人生を送るであろうかのように見えた真悟は、真に共感しあえる、真の〈他者〉に巡り合ったのだ。

実際、この二人が出会ったころのエピソードには、見るものをハッとさせるようなシーンが多い。そのうち、最もクィアで最もエキサイティングな場面の一つは、モンローが大変身した、つまり、「彼女」が真悟という「彼」に変わった瞬間だ。その変身は、モンローと美紀との交信(はじめの頃は電話で、やがて対面での会話)によって実現した。「美紀」というキャラクターは、赤ん坊の姿と賢明な大人の頭脳を持っている、人間らしからぬ不思議な存在である。彼女の両親は、悟一家が東京タワーでの「飛び移り」事件後、離散を余儀なくされ、引き払ったマンションの部屋に引っ越してきたのだ。また別の、意味深で反復的なコマが続く部分では、母親が美紀のいるベビーベッドに電話の受話器を持ってくるシーンがあり、楳図は異質な他者同士の間に生まれつつある共感と深い絆を、過度の接近と過度の拡大を伴う開放、つまり2ページに渡る見開きを通して見事に描き出している(図8)。美紀と真悟が互いに感じている親近感と繋がりを表す、この電話での会話は、ジェイミソンが言うように、エンパシー(共感)というものが、「我々の視界の範囲を超えて永遠に伸び行く文脈の地平」になり得ることを証明してくれている。

図8.真悟が美紀に話しかける2頁見開きの場面

自由に動くことのできない2人は、美紀の母親の助けを借りて、電話で交信する。互いのことを何一つ知らない真悟と美紀は、未知ゆえに、脆弱な立場にある者同士の深い絆を結んだのである。そして、彼らはこの友情を通して新しい自分を創造/想像することになる。美紀が先に「わたしは美紀」と名乗り、次に元・モンローが「わたしは真悟」と名乗る(Umezu 2000: 294–295)。しかしながら、そのふたつの愛称は、「わたし」「美紀 <女>」「真悟 <男>」という自己と性別に関わるカテゴリーを作り上げてしまうため、思いがけない危険を伴うものであった。

図9.人間らしからぬ存在が主体となる2頁見開きの場面

図9に示した見開きは、2人の待ちに待った対面の瞬間であるが、そこには、美紀と真悟の最新にして最も危険なカテゴリーが、「あなたも人間ですね」という、両者がほぼ同時に発していると見られるセリフとして現れる。見開きという形式をとったこの開放は、おぞましい「客観性」を構築する、美紀と真悟の自己発見と共感を表現するための手段である、と夏目は解説する。このコマの中で、真悟は彼の自己認識を象徴するロボットハンドを使って、美紀にとっての防護膜であるベビーベッドのカバーを突き抜け、彼女に接近する。大人の意識を持っているにも関わらず、赤ん坊のような体に閉じ込められてきた美紀の脆弱さは、男性性を獲得した真悟によって露呈されたのである。2人はひとつの声を共有しつつ(吹き出しには発話者を特定する突起がない)、互いに「あなたも人間ですね」と互いのアイデンティティを確認する。楳図は2頁見開き(図8・図9)を2回も使って、このふたつの啓示的瞬間を、「開放」された、「客観的」な、読者の目が思わず「ふと止まる」ような何かを、最適な手法で強調しつつ、非人間と人間性との融合に対する一抹の恐怖とともに、読者に伝えているのだ。しかしながら、図9において、2人の身体は並列ではなく、ロボットハンドがはっきりと描写された真悟の男性性を帯びた体が優位に立つ。新たに獲得した自由と行為主体を武器に、真悟は〈他者〉の更なる他者化という行為を、美紀という女性性を付与された〈他者〉に対して繰り返し、そうすることにより、真悟は男根中心主義のシニファン・エコノミーに再回帰する。これは彼の「わたしも人間だ!」という宣言に見出すことができる(Umezu 2000:324)。

『わたしは真悟』の最初の3分の1に当たるストーリー・アークが終了しようとしているこの時点で、我々はこの物語世界に何らかの存在論的可能性が果たして残存しているのか、という問いかけをしなければならない。楳図はあの支配的圧力に対する批判を、特に日本人の異質なものへの視点から、投げかけているのだろうか。一方で、マリリン・モンローの切り抜き(図7)をロボットのボディから引きはがすことで、楳図は「自己 vs. 他者」という二項対立を壊すような、モンローのジェンダー・トラブルを発動させている。言い換えれば、モンローは、図8において、ジェンダー・トラブルを行い、自己をモンローという女性から真悟という男性へと再定義したのだ。他方で、モンロー/真悟は、覇権的な性規範を壊すどころか、一層強固なものにしているとも考えられる。楳図は、「自然化」という不可視なバリアの向こうに隠された覇権的な力を隠蔽するために機能する、普遍的な「男根中心主義的シニファン・エコノミー」(バトラー)を図9の中で継続・強調しようとしているのであろうか。真悟になることによって、性転換を果たしたロボットは、異性愛主義的規範に潜む性秩序を再肯定しようとしているのであろうか。そのような性規範は強制的異性愛主義、生殖活動、そして「家族」の形成を――たとえそれが中間的で、未発達で、機械仕掛けで、肉体をもたない存在であっても――容赦なく強要するのだ。『わたしは真悟』という作品の最も恐ろしい点はおそらく、真悟のような、非標準的で非正常的な「からだ」をもった異端者でも、子どもたちの助けによって、彼が壊すに至った法則を再び構築しうるという点である。そのような恐ろしい悲劇は、楳図が本作品の中で生々しく描いているものである。社会経済が停滞する中で、日本人が自分の主体性を実現するためにできる事と言えば、東京タワーのてっぺんから飛び降りるか、マリリン・モンローの仮装をするぐらいしかないのである。

しかしながら、『わたしは真悟』は主体・ジェンダー・人種に関わる存在論的推測に対する大胆な挑戦として読まれなくてはならない。人間はそのような存在論的推測から完全に脱却することはできないのだが、それでも私たちが自己と〈他者〉の中間的な空間に、より注意を払うことで、安直な結論を避けることは可能だ。気性が激しく、時には殺人鬼にもなる、この日本製ロボットは、同時に日本人がジェンダーや文化に関わる規範から解放される方法を示唆するものでもある。2頁見開きの開放から、閉所恐怖症になりそうな息苦しさを伴う、ロボットハンドに焦点を当てた1頁の圧縮のあと、モンロー/真悟は皮肉にもこう高らかに宣言する:「じゃあ、私も人間ですね!」(Umezu 2000:324)。しかし、人間性を獲得したと宣言する真悟は、危険で、悲哀すら帯びた「人間もどき」でしかない。「人間もどき」の真悟には、人としての救済は自己矛盾に満ちた者であり、あがないの道はない。

真悟が人間性に目覚めたあと、この作品は悟・真鈴・真悟がそれぞれ日本各地、もしくは日本以外の場所を彷徨う様子を追っていくのだが、彼らがあの部品工場で築いたような絆を再び取り戻すことはない。楳図かずおの『わたしは真悟』は、私たちが人間社会(日本を含む)の一員になるとき、いかに個の自由を維持することが難しいのかという事実を物語っている。しかしながら、私たちは、自分たちの子ども時代に、他の子どもたちと築いていた絆を思い起こせば、そのような、まだ人間社会の完全な一員となる以前の友情や愛情というものによって、真の自己を維持することができるかもしれないのだ。漫画という視覚的な物語を通して、楳図はわたしたちの身体が人間社会という大きな組織に取りこまれる前の自己の形を描き出す。わたしたちが、自分たちと同じように排除され、疎外され、孤立させられた存在を見つけない限り、恐ろしい世界から逃げ出すことはできないのかもしれない。楳図にとって、その恐怖の世界は1980年代の日本だったのだ。