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日本研究女子鼎談——シュミット堀佐知、キンバリー・ハッセル、ジュナン・チェンによる 日本研究をめぐる「よもやま話」

<プロフィール>

キンバリー・ハッセル

アリゾナ大学東アジア研究学部助教授。専門は文化人類学とデジタルエスノグラフィー。特に、現代日本におけるデジタル文化・若者文化・アイデンティティの相互関連性に関心がある。現在、SNS・スマートフォン、そして、日本に住む人々(特に若者世代)の流動的な社会性と自己の関連を分析する研究書を執筆中。コロナ禍が日本でのデジタルソーシャリティに与えた影響とユーザーのエスノグラフィーに関する論考に “Digital Sociality in COVID-19 Japan”がある [1]。文化人類学に加え、ディアスポラ研究やcritical mixed race studiesにも関心をもつ。黒人と日本人の交流に関する研究も行っており、最近出版された “Black Japanese Storytelling as Praxis: Anti-Racist Digital Activism and Black Lives Matter in Japan” [2] は、ブラック・ジャパニーズの若者たちによる「デジタル社会運動」を考察している。ドミニカ系アメリカ人であることを誇りに思うニューヨーカー。

ジュナン・チェン(陈君楠)

プリンストン大学東アジア研究・人文学学際研究博士課程後期在籍。現在執筆中の博士論文『Expressing Time』は、冷戦期を中心に、20世紀日本における「時間」という変遷的批評概念と技術メディアとの関係を考察する。この博士論文は、多木浩二、吉田喜十、滝口修造、クリス・マーカー、アンドレイ・タルコフスキーなどの思想家、作家、アーティストの多様な視点や声を集め、批評・検討することを目的とする。2021年12月、ダートマス大学で催されたワークショップにて “The Imperishables: Somatic Remediation, Femininity, and Plasticity in Ōshima Nagisa’s Urban Critique” という論文を発表。その中で、これまであまり注目されてこなかった、60~70年代の日本で新たに誕生した都市空間構想と左派の文化的想像物に見られる特定のジェンダーコードの交わりに着目しつつ、批評分析を行った。さらに、大島の『東京戦争戦後秘話』(1970)の分析を通して、英語圏のフェミニスト映画理論が前提とする、普遍的な「男性の眼差し」の存在にも疑問を投げかけるとともに、女性の身体のもつ不朽性という観点から、女性の身体の抽象化・獲得・消去・潜在的可能性などを本作品に見出した。趣味は映画撮影と写真撮影。


2022年6月16日、プリンストン大学院で博士号を修得し、秋からアリゾナ大学に助教授として就任するダートマス大学卒業生のキンバリー・ハッセルさんと、キンバリーさんのプリンストン大学院の後輩で、現在博士論文を執筆中のジュナン・チェン(陈君楠)さんと、ズーム鼎談を行いました。お二人は、2021年12月3日と4日にダートマス大学で開催された“Embodiment: Representations of Corporeality in Texts and Images of Japan”というワークショップで論文を発表してくれました。以下はその会話のハイライトです。(S=シュミット堀;H=ハッセル;C=チェン)。


S:キンバリーさんは、もうすぐアリゾナに引っ越すから、その準備で忙しいでしょうけど、それ以外にはいまどんなことをしていますか。

H:実は、いま、『メカデミア』誌[3]の「メディアミックス特集号」に投稿するための記事を書いているところなんです。12月にダートマスでの「Embodiment」ワークショップで発表した論文をもとにしたものですよ。

S:おお、それはすごいですね。「インスタ映え」の?

H:はい、そうです!これは、私の博士論文の最初の2章から部分的に抜粋して、それをひとつの論文にまとめたものです。私がこの中で論じているのは、主に少女文化に関わるメディアミックス言説における、「インスタ映え文化」とインスタグラムの普及そのものの重要性についてです。インスタ映え文化は、単に女子学生や若い女性の間で人気のある娯楽的な活動、というだけでなく、SNSに写真をアップしたら捨てられてしまう食べ物の「食品ロス」問題や、通常の雇用形態から疎外されている人たちにとって、SNSが命綱になり得る現状など、社会問題との関連という視点からも分析しています。

S:じゃあ、掲載されたら、読ませてもらいますね。ジュナンさんはどう?博士論文で忙しい?

C:はい、博士論文もそうなんですが、最近うちの大学で、とても優秀で、学生からの信頼も厚い先生のテニュア(注:アメリカの大学における終身雇用システムで、6年目に審査が行われ、可決されない場合、講師への降格・他大学への移動・転職などを迫られる)が否決されてしまって・・・。だから、いま、教員と学生の有志グループを作って、大学に提出するための抗議文書を作成しているところです。最初にそのニュースを聞いたとき、大学院生も学部生も、みんな非常にショックを受けました。そして、すぐ200人以上の人が、嘆願書に署名をしてくれて、その先生を称賛する証言も、たくさん集まったんですが、署名と証言に対する大学側からの返答はありませんでした。だから、いま私たちが取り組んでいるのは、嘆願書を無視したことへの抗議文書です。プリンストンの東アジア研究者で、特に理論的な研究を行っている先生がテニュアを否決されたのは、ここ数年で2度目です。ですから、これは単発のケースではなく、システム上の問題として考える必要があります。アカデミアにおいて、理論的な知識の創造が軽視されやすいという事実と、エリート主義の象徴であるテニュア制度という構造が、不透明で恣意的なシステムであることを、たくさんの人に知ってもらいと思っています [4]

S:それは大変ですね。テニュア制度は、もちろん教員のモチベーションを上げるという面では、学生に成績を出すのと同じ理屈で、アメリカのユニバーシティ(注:大学院のある総合大学)では、当たり前に存在する制度ですよね。でも、私立大学では、「この条件さえクリアすれば必ずもらえる」というはっきりした基準もないですし、否決された場合には、その理由も開示されないので、いろいろと、複雑な問題が関わってきますよね。

H:私も近い将来、テニュア審査を受けるのかと思うと、緊張します。

S:本当に、緊張しますよね。ほとんどの人はそうだと思います。でも、アリゾナ大学で最近テニュアをとった先生たちに、色々アドバイスをもらったらいいと思いますよ。

H:堀先生も、無事にテニュアがとれてよかったですね。

S:はい、本当に、ほっとしましたよ。それから、二つの学部に所属する先生の場合、両方の支持を得なくてはいけないのが大変なので、私は所属学部が一つでよかったです。キンバリーさんも一つだけ?

H:はい、所属は東アジア研究学部だけです。秋には「アニメと視覚文化」と「日本文化人類学」というクラスを教えるので、いまそのシラバスを書いているところです。

S:学生が殺到しそうなクラスですね。授業と言えば、最近、私はアメリカの大学で日本について教えることの難しさについて、よく考えてしまうんです。これはもちろん、地域研究という学術分野の発端が発端だけに、難しいのも当たり前なんですよね。だって、日本研究の用語も理論もメソドロジーも、ほとんど西洋由来のものを、けっこう無理やり日本に当てはめようとしてるから、度の合わない眼鏡をかけているみたいに、像が歪んでしまうことがあるのだと思います。だから、お二人に、学部生の授業をティーチングアシスタント として教えた経験について、ちょっと伺いたいです。

C:去年、「ジャパン・メディアミックス」という授業を教えたんですが、私もいろいろ大変でした(笑)。やっぱり、このような授業を取ろうという学生の多くは、もともと日本のポップカルチャーに興味がある人です。でも、漫画やアニメなどのメディア表象を通して、「日本はこれこれこういう国だ」だと思い込んでしまっている学生もたくさんいて、そのような先入観を変えるのは、非常に難しいと思いました。

S:例えば?

C:この授業の中で、勅使河原宏の『砂の女』(1964)とニーナ・コーニエッツの評論エッセイ [5] を扱ったんですけど、学生たちは、映画の全体像も、評論もそっちのけで、この映画の、1シーンのことだけに固執してしまったんです。それは、一見「レイプ未遂」的な場面なんですが、学生たちの意見は、そのシーンの分析というよりは、性暴力の非道徳性に関わる一般論のようなものばかりでした。

H:うーん、私は、ジュナンの学生たちがどうしてそういう反応をしたのか、理解できるけど、教える立場の人間として、ジュナンがそういう学生の反応に戸惑う気持ちもよく分かる。あの映画と評論には、他に考えるべき主題や、扱うべき問題が山ほど詰まっているのに、学生たちが、その「レイプ未遂」シーン以外のことにまったく関心を見せなかったなら、それはもったいない。

C: はい、それから、学生たちの中には、「どうしてトリガー・ウォーニングをしてくれなかったんですか」と、不満を言う人たちもいました。実は、私はその時まで、「トリガー・ウォーニング」というコンセプトがあるということすら知らず、すごく申し訳ない気持ちになりました。もっと、学生が精神的なショックを受けないよう、気を遣わなくちゃいけなかったのに、と思って・・・。まあ、とにかく、残りの授業時間は、コーニエッツの評論について、みんなで話し合おうとしたんですが、もう無理でしたね。

H: またこの映画を教える機会があったら、何かやり方を変えると思う?

C: はい、そのつもりです。次に『砂の女』を教えるときは、事前に、この映画にはそのようなシーンが出てくるということを、「レイプ」「性暴力」のようなニュアンスに欠けた言葉は使わずに説明しておくつもりです。そして、授業の中でも、学生たちが例の場面を映画世界という文脈にちゃんと位置づけられるように教え方を工夫して、あとは、学生たちに、1960年代の日本で製作された、この前衛的な映画の中の出来事を、「性暴力」という概念に当てはめてもあまり意味がないということを、説明したいと思います。

S:それは大変でしたね。でも、そんな風に工夫をすれば、学生たちの反応も、次回は違うものになるでしょうし、『砂の女』という作品から彼らが得るものも、今回よりずっと多くなるでしょうね。ちなみに、私は、トリガー・ウォーニングしない派です。キンバリーさんは?

H:私は「トリガー・ウォーニング」という言葉は使っていませんけど、差別表現・暴力・いじめ・自殺などを扱った作品を教える時は、それを事前に学生に知らせます。最近は「トリガー・ウォーニング」ではなく、「コンテント・ウォーニング」という言い方をする先生も多いみたいですけど。

S:うーん、でも、どちらも「ウォーニング(警告)」という言葉なんですね。私が警告しない理由は、警告したがために、その作品を違う目で見てしまう学生がいると思うからです。実際、最近の研究でも、トリガー・ウォーニングやコンテント・ウォーニングが逆効果であるという結果が出ていますし [6]

H: 私の場合ですけど、授業でなにか映像を見せているときに、「外に出たい人は出ていいですよ」とか、オンライン授業の時は「音を消してもいいですよ」と言います。でも、実際に教室を出たり、音を消したりする学生は、いませんでした。逆に、みんな、より真剣にその映像のテーマについて考えるようになります。でも、外に出たり、音を消したりするオプションを学生に与えるのはいいことだと思いますし、学生たちも選択肢があることが、心強いみたいです。

C:私も、これからは、トリガー・ウォーニングが必要なテーマは、事前に教えてください、と学生に頼んでおくようにします。でも、私が学部生の時には、その言葉自体、まだ使われていませんでしたよ。もちろん、「自分が過去に経験したトラウマを思い出したくない」という学生の不安な気持ちは、共感できますが。

S:私も、ダートマスに来た2015年ごろですね、初めてその言葉を聞いたのは。

C:堀先生は、学生が抵抗感を示すような作品を教える時、どうしてますか。

S:自分が専門の古典文学は、一夫多妻制とか、近親婚とか、歳の差婚とか、学生が抵抗感を示す昔の風習がどっさり詰まっています(笑)。やはり、授業の中で、現代的で西洋中心的な世界観を相対化するようなディスカッションを続けていくしかないですね。「表象と現実を分けて考えよう」とか「道徳の教科書みたいな文学、読みたいの?」とか「みんなも平安貴族に生まれてたら、一夫多妻、やってたよ」とかは、授業の中でよく言いますよ。それから、平安時代の物語の中で、貴族の妻の一人が嘆いていたりすると、学生はそれを、一夫多妻制が悪習であることの証拠みたいに思ってしまいます。でも、現代社会にも、夫や恋人の男性に裏切られたり、殴られたり、殺されたりする女性は星の数ほどいます。そして、その女性たちは99.9%一夫一婦制社会に住んでいるのに、女性が苦しんでいる理由は一夫一婦制だとは誰も言いませんよね。こういう風に、自分が「誰が聞いても正当」だと思えるような議論も、多少は疑ってみるのはいい頭の柔軟体操だと思うんです。頭が柔らかくなると、文学を読むのも楽しくなるんじゃないかな。

C:そうですね。私は、学生たちが、『砂の女』が一体どういう作品なのか考える事さえ放棄しちゃったことが残念です。あの映画は、架空の辺境と都市を対比することで、そこに強い緊張感を創り出していて、私たちが普段何気に抱いている、アイデンティティとか国家とかセクシュアリティに対する思い込みを揺るがしてくれるような作品なんですが。視覚的にも、非常に画期的な作り方をしていて、イマジズムによる現実の表象がどんなものかとか、映像技術は、冷戦下の日本が対峙していた新たな権力構造の表象にどのような影響を与えたのかとか、いろいろなことを考えさせられる映画なんです。例の「レイプ未遂」も、新しい技術メディアによって実現した視覚性の一例を提示する重要な場面なのですが、学生たちは、そのような文脈を無視した「男性による女性への性暴力」という話題に固執してしまいましたね。

H:いまの話を聞いていて、今度私が教える「日本のポピュラーカルチャー」という授業のことについて、ちょっと考えてしまいました。その授業では、アイドル・セレブ文化を扱う週があって、そのトピックを扱っている評論と今敏の『パーフェクトブルー』(1997)を課題に出しているんです。この組み合わせで日本のセレブ文化を考察すると、とても興味深い分析やディスカッションをすることができるんです。でも、学生による性暴力描写や流血シーンの批判だけで授業が終わってしまったら、残念です。一応、この映画を観せる前に、内容について話し合っておいて、そのあとで学生が動揺しそうな場面のタイムスタンプ付きコンテント・ウォーニングを出そうと思っています。それから、『パーフェクトブルー』を観たくない人がいたときのために、セレブ文化を主題にした別の映画でよさそうなものを準備しておくつもりです。

C:学生が文学作品や映画を、道徳とか政治的な見地から鑑賞するのを頭ごなしに阻止するのではなく、歴史やジャンルの文脈で解釈できるよう促す・・・これは決して簡単ではありませんよね。

S:そう、学生ががっかりして「もう発言するのはやめよう」と思っちゃわないよう、フィードバックの仕方にも気を遣いますよね。ただ、あまりにも21世紀アメリカのエリート大学生としての世界観や政治的立場にとらわれていたり、作品をいかにも消費者目線で評価していたりする場合は、「日本研究の学生」としてのアイデンティティを呼び起こすのもいいかも。彼らの、知的階級としてのプライドをちょっと刺激するというか。学生たちの主観的な視点を、「この作品は何を伝えているのか」「なんでこの作品を読む・観ることに意義があるのか」という、より分析的な見方にシフトさせるのが大事ですよね。

C: そうですよね。どんな作品を授業で扱うにしても、最終的には、私たちの身の回りにある確立した基準というものを、学生たちが再考できるような契機をつくってあげるのが私たちの仕事ですよね、政治的・社会的規範にしろ、知識の創造という特権の所在にしろ。

H: 私も以前ティーチング・アシスタントとして教えた「日本社会と日本文化」という授業で、似たような経験をしました。私が学生にしつこく言い続けたのは、アメリカと日本を単純比較する癖や、アメリカ社会に見られるアメリカを世界標準とするような考え方を見直しなさい、ということですね。実は、先進国の中で、アメリカが例外的に遅れている、というシチュエーションもたくさんあります。例えば、国民健康保険がない、とか。アメリカを脱・中心化することがこの授業の目的のひとつだったので、テクストや課題の選び方にもそれが現れていて、学生たちは一学期のうちに、何でもアメリカ中心に考える癖をだいぶ直すことができたと思います。

C: それはすごい。それと同時に、私たちが世界を東西という二項対立に分断してしまわないよう、気を付けるのも非常に大事ですよね。日本関係の授業をとる学生は、日本にもともと興味がある人が多いですが、その興味の源は、日本が西洋とかけ離れた文化を持っているという先入観だと思います。日本文化は「スペクタクルな他者」だ、というような。そのようなイメージはマスコミだけではなく、日本研究者によっても作られていると思います。日本を他者化するような言説を専門知識として創造するのではなく、日本を包括的に考えて行くことが、日本研究に求められていると思います。

H: 同感。やっぱり、学生がどんなきっかけで日本に興味を持つようになったのかとか、日本社会・日本文化に関するどんな情報をメディアなどから吸収してきたのか、ということを念頭に入れておくのも大事ですよね。私も、授業の最初の日に、学生たちに「日本に関心を持ったきっかけは何ですか」と質問しますけど、当然、アニメ・漫画などのポップカルチャーと答える人が圧倒的に多いです。ジュナン、さっきも話してたけど、最近、日本のポップカルチャーは、ティックトックでも頻繁にフィーチャーされていて、Z世代の日本観にも影響を与えそうだよね。学生たちには、日本のおもしろいところはポップカルチャーだけじゃないよ、としつこく言い続けることが重要だと思っています。学生たちにとってはちょっと矛盾ように聞こえるかもしれませんが、やはり自分のポピュラーカルチャーの授業でも、ちゃんとこの点を教えようと思っています。そのために、授業のコンテンツやディスカッションを通して、ポップカルチャーの背景となる歴史的・文化人類学的な日本社会論をしっかりと押さえていくつもりです。

S:世の中には「教授法」を専門に研究している人たちがいますよね。でも、実際は、教える技術って、教える相手とよい人間関係を築くだけで8割方はオッケーなんじゃないかな。教授法は残りの2割をどうするか、という研究しているような気がします。でも、8割の方がちゃんとしていなければ、2割の技術を磨いたって意味ないんじゃないかな。学生を人として見て、先生も人としてふるまって、それから、「成績のためじゃなくて、学ぶために勉強しなさい」と学生に伝え続ける。そして、授業中は、機会があるたびに、ジョークを飛ばすのがとても重要です。自分も楽しんで教えるのが一番ですね。キンバリーさん、ジュナンさん、今日はどうもありがとうございました。

H&C:ありがとうございました!

 

[1] https://www.anthropology-news.org/articles/digital-sociality-in-covid-19-japan/

[2] Hassel, Kimberly. 2022. “Black Japanese Storytelling as Praxis: Anti-Racist Digital Activism and Black Lives Matter in Japan.” In Who Is the Asianist?: The Politics of Representation in Asian Studies. Edited by William H. Bridges, Nitasha Tamar Sharma, and Marvin D Sterling. Ann Arbor, MI: Association for Asian Studies, 139–157.

[3] https://www.mechademia.net/

[4] プリンストンの大学新聞に掲載されたジュナンさんのコラム: https://www.dailyprincetonian.com/article/2022/07/erin-huang-tenure-denial-area-studies-princeton

[5] Cornyetz, Nina. 2004. “Technologies of Gazing in ‘Woman in the Dunes.’” U.s.-Japan Women's Journal 26: 30–54.

[6] Boysen, G. A., et al. 2021. “Trigger Warning Efficacy: The Impact of Warnings on Affect, Attitudes, and Learning. Scholarship of Teaching and Learning in Psychology, 7(1), 39–52.

[7]キンバリーからのアップデート情報:

「実際教えてみたら、この授業で扱った映画の中でも特に『パーフェクトブルー』が気に入った、と言う学生が多かったです。ディスカッションの際も、確かに観ていてちょっと動揺したり、居心地の悪さを感じる場面はあるけど、日本内外のセレブ文化について、良い・悪いだけでは片づけられないような、いろいろと複雑な面に気づけたのでよかった、という話してくれました。ほとんどの学生は私の出したコンテント・ウォーニングを念頭に置いて『パーフェクトブルー』を観ましたが、数人は細田守の『竜とそばかすの姫』を観ました。