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無血の合戦?―『平家物語』における血穢と血の表象

無血の合戦?―『平家物語』における血穢と血の表象[1]

ワイジャヤンティ・セリンジャー

要約

現代の読者にとって、戦争をテーマにした視覚的・文学テクストには、流血・内臓の溢流・斬首などの非常に生々しい表象がつきものであるが、平安時代の宮廷世界から武士(もののふ)の時代への劇的な変遷を描いた『平家物語』には、直接的な血への言及がほとんどない。本稿は、『平家物語』が死を往生の契機と捉え、戦で負傷した人物の流血描写を忌避する傾向にある点を明示しつつ、この「無血の軍記物語」の特殊性を考察する。そして、同書が特定の登場人物による社会的・政治的逸脱行為を、血を抽象化した概念や慣用表現を通して非難しているという点にも注目する。このような分析により、本稿は『平家物語』が血を「ゼロ記号」つまり、「描写しないという描写」として活用すると同時に、血にまつわる負のイメージを用いて、テクストの政治的立場を表明していることを明らかにする。無血の軍記物語『平家物語』が、中世日本における「血の政治性」を考える上での好材料を提供するとともに、より血腥い他の軍記物語と好対照を成すテクストであることを提示することが、本稿の目的である。


現代の読者にとって、戦争をテーマにした視覚的・文学テクストには、流血・内臓溢流・斬首などの非常に生々しい表象がつきものであるにも関わらず、源平合戦(1180−1185)という激動の時代を描く、『平家物語』(14世紀)と総称される一連のテクスト群には、直接的な流血への言及がほとんど見られない。[2]  「汀に朱になってぞなみ臥したる」の一節でクライマックスを迎える一ノ谷の合戦はよく知られているものの、実際に『平家物語』の合戦シーンや登場人物の最期の場面を調べてみると、その大多数が「無血」であることが分かる。[3] 例えば、本稿が分析対象とする覚一本(1371)と延慶本(1309)に「血」という語が現れるのはそれぞれ10回と24回のみである。[4] これは、史学者・坂井孝一と文学研究者・小西甚一が指摘するように、『ニーベルンゲンの歌』(1200年頃)などの、騎士たちの鎧の隙間から血が溢れ出るような描写で知られる、中世ヨーロッパの軍記物語とは比較にならない。『平家物語』は実に血の描写が少ない作品なのである。[5]

日本の軍記物語の中で、ここまで流血の描写を忌避しているのは『平家物語』に独特の傾向である。13世紀に成立した『保元物語』『平治物語』などは、同時代の西欧のそれには及ばないものの、『平家物語』よりは遥かに血の描写が多い。『平家物語』に多少遅れて成立した『太平記』(1375年頃)なども流血への言及を憚ってはいない。[6] それに対し、『平家物語』では、戦闘中に受けた外傷による流血は、一度たりとも描かれていない。この現象について最初に言及したのは小西甚一である。しかしながら、小西の指摘は、覚一本における流血描写の忌避と、死を極楽成仏の手段の一つとして描いている点の関連を示唆するだけにとどまった。[7] その後、小西の指摘を受け、坂井はこの現象と血穢との直接的な関連を論じ、また、文学研究者の佐倉由泰は、源平合戦で命を落とした人々の救済を、より確実にするための手段であると論じた。[8]

こうした学際的な議論を踏まえつつ、本稿はまず『平家物語』が、戦における流血描写を制限することにより、死を身体レベルの事象から仏教の救済に関わる事象へと転換させている点を明らかにする。つまり、このテクストは、身体的な死を画一的な常套句や婉曲表現で包み込むことにより、死者の自己をその肉体から解放しているのである。では、このような無血の軍記物語のなかで、戦はどのように捉えなおされているのであろうか。イレイン・スケアリーによれば、戦争というものは、人間の物質的身体を損傷し、それによって物質世界を超越した「真理」を抽出する事象であるという。[9] 言い換えれば、勝者による敗者の殺傷は、後者のイデオロギーを撲滅する、という大義名分が事後的に付与され、正当的な手段として捉えられるのだ。しかしながら、本稿が提示するように、スケアリーの洞察に反して、『平家物語』は死者の身体をその肉体と切り離し、仏教の救済論理へと昇華させているのである。

『平家物語』がその合戦場面において、流血描写を避けることで「血の脱政治化」を図っているとするならば、逆に戦闘以外の場面では、血は顕著に政治化されている、というのが本稿の第二の主張である。この点を明らかにするため、筆者は、血穢という概念がいかに『平家物語』の中で社会的・政治的な逸脱行為を浮き彫りにする表象として機能しているかを考察する。後述するように、中世の日本と中国では、「血涙」や「血書」などの表現が使用される場合、威厳に満ちた、尊敬に値する人物の血が想定されるのに対し、『平家物語』においては、血の涙を流し、血で文書を認(したた)める人物は、高尚さとは程遠い、憎悪に満ちた人物である場合が多い。さらに、血穢概念は、支配者の正統性を疑問視したり、流罪人を酷評したり、流刑のもたらす不名誉を強調したりする役割も果たすのだ。つまり、本稿は『平家物語』が内包する「否定による血の政治化」という機能―血が、歪み・タブー・逸脱を表象すること―を明らかにする。動詞の否定形を作る語のもつ文法的否定機能と同じように、血の意味論上の否定作用は、特定の人物に否定的なイメージを付与する。そして、非難に値するもの、容認すべからざるものを描写(かつ警告)すると同時に、血は、その対極にある、神聖で不可侵なものを表象するのである。[10]

『平家物語』は、この二種類の「血」の表象法の間に相互補完関係を作り出し、仏教の救済論との関連で合戦場面での血穢を忌避する一方で、抽象的な血のイメージを用いて社会的・政治的な逸脱行為を非難するという修辞的戦略を生み出した。戦闘場面における殺傷の描写と、より象徴的な血のイメージは、文学テクストにおける表象として、読む者に異なる印象を与えるため、これまでの研究の中で同時に考察されることはなかった。しかし、『平家物語』が、どちらの種類の血も、好ましくないものとして退けていることは、注目に値する。この作品の中で、外傷による流血は、ゼロ記号として機能するのだが、その結果、無血の文脈に現れる象徴的な血に強い忌避感を纏わせることができるのだ。[11] つまり、先行研究の中で、救済論や文化的要因のみとの関連で論じられてきた流血描写の不在(小西、坂井、佐倉)を、本稿は新たに記号論的戦略として捉えなおし、考察を試みる。筆者の考えでは、『平家物語』世界の血は、単に物語の周辺に押しやられている存在ではなく、死者を神聖化する静寂さと、その沈黙を破る異端者への糾弾としてのダイナミックな相互作用を持つ存在なのである。

本稿が注目するもう一つの対比は、西欧と中世日本での血の捉え方の違いである。中世日本では、血液は犠牲観や穢れなど、宗教的意味合いを強く帯びた体液そのものであるのに対し、西洋では、抽象的な概念としての意味合いが強い。ミシェル・フーコーが指摘するように、血というものは、中世ヨーロッパでは権力を象徴する隠喩として、非常に重要な役割を果たしており、例えば、「ある種の血が流れている」「同じ血が流れている」「血を犠牲にする」という慣用表現は、それぞれ「高貴な出自」「同族」「市民が君主のために命を捧げる」ということを意味する。[12] これに対し、『平家物語』では、血は「宇宙的、または社会的な構造の一線」を越えた際に生じる、一種の非常性を指し示すものである。[13] 従って、これまで女性の出産・月経に関わる血穢を中心に、宗教的なシニファンとしてのみ考えられてきた血液は、文学的シニファンとしても機能とするのである。[14] 『平家物語』に特徴的な血の表象を考察することは、中世日本における血の政治性の様相を広く考え、他の軍記物語との比較分析する上で有効な手段であると言える。

本稿では、軍記物語に限定された血の表象に焦点を当てているが、注意しなければならないのは、血というものが日本の文化的・歴史的文脈において、記号論的に特殊な変遷を経たという事実である。まず、西田知己が論じているように、日本では中国と異なり、血は江戸時代に至るまで、血統を表象する概念ではなかった。[15] また、『日本書紀』(720)など、奈良時代の文献では、流血が征服と領地拡大の象徴ではあったものの、中世のテクストには当てはまらない。[16] ほとんどの場合、血液はそれに触れた人に穢れをもたらす存在としてのみ捉えられていたのだ(例えば、穢れの影響下にある人は儀式を司ることはできなかった)。[17]

このような血に対する強い忌避感と呼応し、中世日本の史料では、神聖な場所や神器などが血穢を被るという「事件」を除いては、血への言及を憚るのが普通である。[18] 例えば、坂井が論じているのは、石清水八幡宮護国寺の俗別当が神官を殴ったという事件に対する中原師光(1206-1265)の反応である。[19] 師光は、このような冒涜的行為がもたらす穢れへの不安から、984年から1202年にかけて発生した、寺社境内での流血事件を調査・詳述したという。[20] 九条兼実(1149-1207)の日記『玉葉』(13世紀)においても、血への言及は、土御門帝(1195-1231)の即位の日に、三種の神器が運ばれる経路の途中に、諍いによる血痕が残された不吉な事件や、1178年に日吉神社の境内で起きた乱闘など、血穢事件としてのみ記録されている。[21] それ例外に『玉葉』に記録されるのは、出血を伴う病気や血忌日という漁猟を控えるべき日に関する場合であり、そのような限定的な文脈以外では、血への言及は史料にほとんど現れてこない。

このように、文学テクスト・史料に現れる流血描写は少ないのだが、記録される場合は、負傷した部位は、腕や足ではなく、たいてい頭や顔である。例えば、12世紀に成立した『今昔物語集』に所収されている「近衛の御門で人を倒す蝦蟆(がま)の語(はなし)」という説話では、大学寮の学生(がくしょう)が朝廷の当番兵を追いかけているうちに転倒し、顔面から血を流すという滑稽な場面がある。[22] また、『応仁記』(1488?)に描かれる戦闘場面では、野老源三という人物が、刀で兜の本体部分を打たれ、顔面から出血する様子が記されている。[23] 坂井が論じているように、神仏に繋がる神通力は人の頭部に宿るとされたため、頭部や顔面からの流血が特別に言及されたのである。[24] 覚一本の中で唯一の流血描写(後述)も、頭部を負傷したケースであり、人体において特別に神聖視されていた部位の外傷が人々の関心であったことが伺える。

以下、筆者はまず『平家物語』がどのようにして、登場人物の最期の場面において、流血を忌避し、死に直面する身体を神聖化・非肉体化するのかを明らかにする。これは、多くの軍記物語の中で、流血描写が敵という客体を成敗する手段として機能するのに対し、『平家物語』世界では、死は肉体の終焉ではなく、救済の契機となっていることを示している。続いて、本稿は、『平家物語』が、登場人物の反社会的行為を非難するために血のイメージを援用している様子を分析する。

『平家物語』には夥しい数の異本が存在するが、本稿では、その中から、代表的な二つ―最も有名で複数の英訳が存在する覚一本と、比較的長い本文を持ち、恐らく現存する諸本のうち最古の延慶本―を分析対象とする。[25] 充分な数の事例を確保することと、死者の鎮魂という役割を担ったと考えられている覚一本に特徴的な血への忌避観に焦点を当てることがその目的である。盲目の琵琶法師たちによって語られる平曲は、源平合戦という激動の時代が過ぎ去った後、鎮魂によるカタルシスをもたらすが、その平曲のテクストとして成立した覚一本は、極楽往生の思想に基づき、死者の救済への祈りを以て締めくくられる。[26] これに対して延慶本は、平氏残党の生け捕りと勝者・源頼朝(1147-1199)の称賛、という政治的終結を以て幕を閉じる。[27] 死者を悼む精神は両者に見られるものの、覚一本はその死生観との関わりのため、延慶本に比べ、血に対する忌避観が顕著であり、これは平曲奏者の社会的地位にも関わりうる問題である。琵琶法師たちは、平曲の語り手であるだけでなく、死と穢れを司る「非人」身分の者として、葬儀を執り行う存在でもあった。[28] これは想像の域を出ない仮説ではあるが、死者を弔うことで、自らの(そして死者の)「不浄」な身体を浄める役割を果たした琵琶法師たちが、さらに血穢のイメージまでを背負いたくなかったであろうことは、想像に難くない。

『平家物語』における無血の死

『平家物語』は、戦場で命を落とした武士たちの往生を願い、念仏を唱えながらの最期という、脱肉体化された死を描こうとしている。中世文学における死の表現は、時宗の伝道師が好んだような、屍が朽ちていく生々しい描写から、『往生伝』に見られるような、極楽浄土への生まれ変わりに至るまで、多岐に渡った。これは、身体に関わる仏道教義の多様性を反映している。悪臭を放ちながら腐敗していく骸が肉体の無常を表現する一方で、死の床で唱えられる念仏は、死者の崇高な来世への再生を約束するものであった。『平家物語』は、後者の立場をとり、死にゆく者の身体を非物質化し、現世を超越した「共同体」へと彼らを導くのだ。[29]

再生を予感させる最期の典型としては、死の直前、敵によって腕を打ち取られた平忠度(1144-1184)の例が挙げられる。迫りくる最期を悟り、忠度は敵に「しばしのけ、十念となえん」と言う。[30] そして、彼は厭離穢土と欣求浄土いう教義を死の間際に思い起こし、ジャクリーン・ストーンが呼ぶところの「模範的最期」を成し遂げるのだ。[31] 忠度の仏道への深い帰依を描く背景には、彼の成仏を助け、怨念を抱く悪霊として祟ることを避けようとする意図が見て取れる。自害する忠度の流血に言及することは、彼の死を全く肉体的なものにしてしまい、荘厳な往生の契機を損なわせるものである。一方、延慶本においては、忠度は念仏を一度たりとも唱える暇なく斬られてしまうのであり、この興味深いコントラストが、覚一本の根底を流れる死生観を際立たせている。[32]

勧善懲悪よりも救済を優先する『平家物語』は、画一的で似通った最期のパターンを敢えて繰り返す傾向にある。例えば、平知章(1169-1184)は、合戦で掴み合った際、敵と共に落馬するのだが、敵を「おさへて頸を掻」き、別の武士も同様に敵を「おさへて頸を掻」いたと描写されている。[33] このような様式は、常套表現をリズミカルに繰り返すことで、脱個性化を図り、現実味のある死の描写を避けているのだと言える。[34] 後述する今井兼平[1184年没]の自害など、生々しい最期が描かれる場合も無いわけではないが、流血描写を欠くという点では、兼平の壮絶な自決も、没個性的で現実味のない最期と同様である。[35]

『平家物語』は、死を抽象化することにより、救済的な終結をもたらそうとするだけでなく、戦における人的犠牲を透明化しようともしている。覚一本に見られる数少ない血の描写が、その例である。[36] これは平氏に壊滅的被害をもたらした、倶利伽羅峠での合戦の直後の風景を描いた、「巌泉血を流し、死骸岳を成せり」という場面である。[37] この文は、中国式の対句を援用することで、現実味のある肉体的な死を、山水画のような比喩的イメージに置き換えており、我々は人的犠牲の規模を伝えられているものの、犠牲者一人一人の個人的な死の残酷さは目の当たりにしない。このように、読者の視線を巧みに逸らすことで、物語は「想像上の身体が被った想像上の傷」を描き出し、実際に俱利伽羅峠で命を落とした人々の悲惨な姿は、テクストに現れては来ないのである。[38]

また、源平合戦での流血が稀に言及される場合は、単に「赤みを帯びた色合い」として示唆されるに過ぎず、次に引用する場面のように、視覚的コントラストを通して、趣のある美的な空間に昇華されるのだ。

海上には赤旗あかじるしなげてかなぐりすてたりければ、竜田河の紅葉ばを嵐の吹ちらしたるがごとし。みぎはに寄する白浪も薄紅にぞなりにける。主もなきむなしき舟は、塩にひかれ、風にしたがッて、いづくをさすともなくゆられゆくこそ悲しけれ。[39]

この場面において、血は、「嵐の吹ちらしたる」紅葉や「薄紅」として美的に表象され、かなぐり捨てられた「赤旗」「あかじるし」と並列されている。先述した一ノ谷の合戦直後を描いた、「汀に朱になってぞなみ臥したる」骸の数々も、同様に間接的な描写である。これらは、血を体液のような物質から視覚情報へと抽象的に昇華する修辞法だと考えられる。佐倉は、『平家物語』が戦死を集団的な事象として扱い、誇張表現を沈黙の一形態として利用することで、個々の死について語ることを忌避しえている点を指摘している。[40] しかし、イレイン・スケアリーに従えば、これらを死の再描写と看做すことも可能である。すなわち、肉体が負わされた外傷と、外傷による流血は、不可視化されているのではなく、間接的・周辺的な「色」という流血の副産物に転換・再描写されているということなのだ。[41]

『平家物語』の画一的かつ間接的な死の描写は、敗者の血腥い外傷を天誅のように描く他の軍記物語とは対照的である。例えば、崇徳上皇(1119-1164)と藤原頼長(1120-1156)が起こした保元の乱(1156)を扱う『保元物語』では、頼長が矢に撃たれた瞬間を、「血の流出る事、竹の筒より水を出だすがごとし」と表現する。[42] また、1159年の平治の乱を主題にした『平治物語』でも、謀反者の藤原信頼(1133-1159)の最期を、「頸はとられてむくろのうつぶさまに伏したるうへに、すなごけかけられて、折ふしむら雨のふりかかりたれば、背みぞにたまれる水、血まじりて紅をながせり」とする。[43] 佐倉によると、保元・平治の乱は、数世紀に渡る比較的平穏な時代から戦乱時代へ向かう転換の火蓋を切った戦であり、物語がその政治的立場に基づき、謀反者の身体に極端な意味付けを行っている様子は、当時の歴史的衝撃を反映しているという。[44]

『保元物語』と『平治物語』が謀反者の身体性を誇張するのに対し、南北朝時代(1336-1392)の内戦を描いた『太平記』では、身体的な苦痛と死の誇張が、謀反者以外の様々な人物にも広がっている。ヒトミ・トノムラが指摘しているように、傷つき、引き裂かれた肉体描写は、倫理秩序の亀裂を引き起こした後醍醐天皇を儒教的視点から非難するものである(その一方で、鎌倉幕府の執権である北条氏の優れた身体を称えてはいるのだが)。[45] また、『太平記』は流血描写においても積極的であり、例えば、432人の武士が合戦の末に切腹した事件では、その大量の出血が黄河の流れに喩えられている。[46] 兵士のそれと比べ、表現はやや控えめではあるものの、権力者の流血も完全には忌避されておらず、鎧や皮膚が血に染まるという表現が散見される。例えば、執政・北条高時(1303-1333)が複数の矢に射貫かれた時、その傷口から流れ出た血は高時の鎧の縫い糸を「火縅(ひおどし)に染成て」と描写される。[47] 同様に、光厳天皇(1313-1364)も、その白肌を血に染められたとされる。[48] このような、血の通う身体への強い関心は、『太平記』全体を通して見られる傾向であり、死を脱身体化する傾向にある『平家物語』とは非常に異なる趣を呈している。[49]

これらのテクストは全て「軍記物語」というジャンルに分類されているものの、傷ついた身体や死の扱い方は、その政治的立場によってさまざまである。『保元物語』や『平治物語』のように反体制側を糾弾する場合もあれば、『太平記』のように、テクストが支持する人物を称賛し、そうでない人物を揶揄する場合もある。また、『平家物語』のように死者の救済を祈る立場のテクストも存在する。『平家物語』では、25人もの人物が成仏の可能性を抱きつつ最期を迎えるのに対し、『平家物語』よりもはるかに長い『太平記』では、たったの6人である。[50] この二つのテクストの非対称性は、どちらが史実に即しているかという問題ではなく、それぞれが傷を負った身体を特定のイデオロギーに従って活用しようとする方法論の差であり、『平家物語』のそれは、他の軍記物語と非常に異なるものである。

これらのテクストにおける最も基本的な差は、合戦の終結から物語の成立までに要した時間である。『太平記』は、50年に渡る動乱の後、戦や不安定な政治情勢のもたらす惨たらしい現実が、人々の記憶にまだ新しい時代で成立したテクストであるのに対し、『平家物語』は源平合戦の終結から二世紀が経過した時点で現存の形になったものである。すでに指摘されているように、この成立時期に関わる条件は、『平家物語』が源平合戦をはるか昔の歴史的事件として捉え、生々しい恐怖とは一線を画す姿勢にも反映されている。[51] 更に、『平家物語』が採用する死の在り方は、自然界に存在する現実味のある身体のそれではなく、宮廷物語や和歌などに見られるような、社会的・文化的・宗教的に構築された抽象的な身体観を踏襲している。[52]このような傾向は、物語が高貴な人物の死を語る際には、特に顕著である。しかしながら、『平家物語』が外傷・流血・死などを直接的に表現することを避けるのは、時間的な隔たりや貴族的な美意識だけの問題ではない。血を憚る立場をもっとも強く決定付ける要因は、流血描写が死者の往生を願うにふさわしくない文脈をもたらすからである。

では、なぜ血という言葉を用いることが、死者の救済を妨げるのだろうか。実は、この疑問は、これまでの研究では深く検討されてこなかったことである。血で穢れた死者の肉体が極楽浄土への道から排除される、というのがこれまでの主流な仮説なのだが、他の軍記物語と比較してみると、『平家物語』が血を描かない理由が、血穢を帯びた身体が往生できないからではなく、戦の敗者と血穢を結びつける行為が、彼らの魂の救済とは相容れない行為だからである。これを最も明らかに表すのは、合戦後に残された死体の山と、そこから大量に流されているはずの血が、緋色の色彩に昇華されている様子である。そこに、体液としての血は存在しない。血しぶきは敗者・勝者を区別せずに、人体の表面に血痕として残るため、血そのものを非可視化せざるを得ないかのようである。このように考えると、『平家物語』における血は、血穢をもたらす体液そのものというよりは、負のイメージと深く結びついた抽象概念であり、この作品を支える救済思想に相反するゆえに憚られるものなのである。

『平家物語』における禁忌としての血

・栄華を穢すもの
中世の物語作者たちが、神聖なものを血穢から護りながら執筆していたとすると、『平家物語』に見られる方法は独特である。この作品は、人々が血に対して抱く嫌悪感を、非社会的な人物や行動と結びつけ、その非道徳性を示唆するのだ。このような「比喩的血穢」は、例えば、平氏の棟梁・平清盛(1118-1181)が、指導者に求めらる人格や美質を欠いている様を表現するために用いられている。

ある日、清盛が中庭に目を遣ると、4、50もあろうかという数の生首が転がり回っており、その内のいくつかは、いま斬首されたばかりの首であるかのように、鮮血を滴らせていた。[53] 清盛が凝視していると、それらの頭が集合し、ひとつの巨大な生首となり、清盛の政敵に対する残酷な仕打ちを非難しはじめた。清盛が睨み続けていると、やがてその巨大な頭は消え去った。デイビッド・バイアロックが指摘しているように、この場面は、清盛が「鬼退治」によって、異質な朝廷を確立したことを提示するものだ。[54] しかし、清盛がその独裁体制で入道相国として朝廷のトップに君臨するや否や、鮮血を滴らせた生首が眼前に現れるというのは、彼の権力失墜が迫っていることを暗示している。これらの生首は、『大鏡』(11-12世紀)に「髪つきたるものの頭の、血うちつきたる」と描写された、一条帝(980-1011)の即位式に現れた不気味な妖怪の姿に酷似している。[55] 『大鏡』によれば、この怪奇現象は、奇人として知られる花山帝(968-1008)の仕業であり、彼を退位に追い込んだ藤原摂関家を恨んでのことだとされる。[56] 一条帝にとって、即位式に血まみれの頭のようなものが出現したことは、彼の天子としての正統性を充分に脅かす事件となった。

『平家物語』に描かれる怪奇現象には、保元の乱の首謀者である藤原頼長の遺体の一部が掘り起こされた事件もある。頼長は、その20年前に戦死したにも関わらず、朝廷はこの奇怪な事件を、動乱の凶兆として重く見、頼長が出産を控えた皇后・平徳子(建礼門院;1155-1213)に祟らないよう、この朝敵に正一位を授けたのである。頼長の墓前でその詔書が読み上げられる際、墓掘人たちは目を疑ったという。かつて端正な顔立ちと芳香で知られたかの貴人が、「膿血溢流レ」たる、膨張した臓器と破損した肉体の塊となっていたからである。[57] 20年前に死んだ朝敵に正一位を授けるという、この大仰な行為は、死者の恨みがいつどのように再び頭をもたげ、悪霊となって祟るか分からないという、当時の考えを表すものだ。皇后と皇子の無事を願う祈祷と、尋常ではない死穢を描くこのエピソードは、頼長の怨霊が皇室にとって、現実的な脅威になり得たことを示唆している。

穢れへの畏怖は、『平家物語』の中で、平家の子弟が自責の念に駆られる場面にも援用される。彼らは、一族の名を汚したと自らを責め、平氏の政治的威信の失墜を嘆き、歴史に残るその盛衰を内輪の人間だけで取り繕うとする。平維盛(生没年不詳)が源氏の捕虜になった際も、これを「父ノ骸ニ血ヲアヤサム事」―父・平重盛(1138-1179)の名誉を傷つける行為―だとした。[58] 維盛のこの考え方は、子にとって、父の遺骨を護るのは絶対的な義務と孝行であり、比喩であっても、親の遺骨を血で穢すことは断じて避けなければならないという事実を反映している。[59] また、のちに初代鎌倉将軍となる源頼朝は、父・源義朝の遺骨を胸に抱きつつ、源平合戦を蜂起したという。[60] 平氏の衰退は、源平合戦での敗北の結果であるにも関わらず、維盛は自分の至らなさのせいだと考えていた。維盛の自責の念は、物語の冒頭で、血まみれの大生首が維盛の祖父・清盛を譴責しながら予期した平氏の滅亡が現実のものとなったことを表している。

敵の評判を傷つけ、救済を約束するもの
『平家物語』は、時折、敵の排除を記すために血のイメージを用いる(ただし、排除は永久的なものではない)。例えば、養い君の生捕りを嘆く乳母(めのと)が、若君の汚名を雪ぐため、出産時の血穢を分かち合った二人の「血の繋がり」を愛情深く語るのはその一例である。[61] 平氏の最後の生き残りである平六代(生没年不詳)が、ついに囚われの身になった際、その乳母は、涙ながらに主人の不運を嘆き、「血の中より生し奉たりつる若君を、昨日武士に取れて、悲き余りに迷ありくなり」と語る。[62] 六代の処刑後、乳母は六代の母と共に長谷寺に詣で、彼の冥福を祈ったという。覚一本の第二巻でも、藤原成経(1156-1202)の乳母が、流罪に処された成経の身の上を嘆く際に、似通った言い回しをしている。[63] 「血」と「乳」という同音異義語(翻訳者注:同じ語源の言葉であると考えられる)を用いて、乳母たちは血/乳の繋がりに焦点を当て、罪人となった養い君の救済を祈る役目を果たすことを約束する。[64]これらの場面において、血穢は肯定・否定の両面性を孕む。出産に立ち会い、血穢を分かち合った乳母たちは、自分たちを養い君の身内という立場に置くことを可能にしている。[65] しかしながら、出産の穢れが言及されるのは、養い君の立場にある貴人が罪人になってからであるという点を忘れてはならない。つまり、政敵の排除は、血/乳の繋がりと血穢という両面性を以て、間接的にではあれ、表象されているのだ。

血の両義性は、源行家(1186年没)に関わるエピソードにも見受けられる。行家は、源氏の棟梁であり、甥でもある頼朝に背き、捕らわれの身となった。ある日、頭部の傷から流れた血が、獄中で与えられた乾飯に滴り落ちたため、その飯を捨てたところ、彼を捕らえた下級武士の常陸坊昌明という人物が、それを拾って食べたという。この場面は、目下の人間が、貴人から残飯や持ち物を賜わる「下ろし」という概念として解釈されてきた。[66] 昌明は行家の武勇に感服した人物で、彼の食事をもらい受けることで、象徴的な家司になったのだと考えられる。更に、この場面で興味深いのは、頼朝が自分の叔父である人物を処刑したという、身内殺しの汚名が、準身内関係である主人と家司の関係の契機に転換されたことである。このようにして、『平家物語』の中で、行家は源氏にとっての裏切者であり、脅威であると同時に、重んずるべき武将として描かれているのだ。興味深いことに、頼朝は叔父殺しという社会的逸脱行為への批判を避けるかのように、身分無相応にも行家を捕らえた罪で、昌明を流罪にし、昌明は流刑地で、身分的秩序を乱した罪の償いをするのである。このような物質的・イデオロギー的な転換により、叔父殺しの血が頼朝を穢すことはなく、代わりにそれは昌明による行家への家司/準身内化と逸脱行為に対する贖罪の象徴に昇華されたのだ。流刑に処された平氏たちの場合と同様に、血のイメージは『平家物語』に登場する反・頼朝勢力を穢すものであるが、その血穢の程度は、死霊が新政権を脅かさない程度には中和されていると言える。

血涙と政治的不満を表すもの
『平家物語』に最もよく使用される、血に関係する言葉は、古典中国語の慣用表現「血涙」である。例えば『韓非子』(前3世紀後半)に登場する卞和(べんか)(生没年不詳)という人物は、名玉の原石を得て楚の武王に献じたが、偽物と鑑定され、右足を切断された。武王の崩御の後、文王に献上したが、再び偽物とされ、左足を切断され、血の涙を流して抗議した。卞和が強いられた身体的苦痛は、彼の価値を見出せなかった皇帝たちの無能を象徴するものであった。[67]

しかしながら、「血涙」を日本語の語彙として定着させたのは、『韓非子』に描かれる政治的抗議の涙ではなく、白居易(772-846)の『長恨歌』に描かれる悲嘆の涙である。[68] この伝統を継承し、平安歌人は、「血涙」を恋人や家族との離別の哀しみや、聖人の死に対する深い哀悼の表現とした。例えば、和歌の発展に貢献した藤原良房(804-872)が死去したとき、素性法師(859-923年頃活躍)は、哀傷歌に「血の涙」の語を詠みこんだ。[69] 「血涙」の同義語には「紅涙(くれなゐのなみだ/コウルイ)」があり、『源氏物語』の宇治十帖で、薫が大君の死を悼む場面など、非常に強い感情を表現する語である。[70] また、「血涙」はジェンダー化された言葉で、たいてい男性が流すものである。[71]

しかしながら、『平家物語』は、「血涙」を卞和の逸話のように、激しい抗議の象徴として採用しており、この表現は、再び政治的な意味合いの概念に転換されたのである。延慶本の中で血涙を流したとされるのは、流刑者の俊寛(生没年不詳)と、秦の人質なった燕太子丹(前227年没)であり、どちらも体制に歯向かったことで知られる人物である。例えば、俊寛・平康頼(生没年不詳)・藤原成経の三人は、1177年、平氏一門に対するクーデターを企てた。しかし、その陰謀が密告により暴露され、九州沖の鬼界ヶ島―硫黄臭とその名が地獄を彷彿させる―への流刑を宣告される。到着するや、三人は血涙を流してこの不運を嘆いたという。また、己の罪過を悔やんだ康頼と成経は島に寺を建立し、その結果、翌年恩赦を受けた。しかし、反省の色を見せなかった俊寛はとり残され、彼は再び血涙を流し、自らの胸や頭を巌に打ちながら運命を呪う。[72] その二ヶ月後、清盛の娘徳子が産気づいた際、俊寛の生霊が中宮を苦しめる。そして、彼が亡くなった1179年の五月にも、不吉な竜巻が都を襲った。俊寛が抱いた平家一門への怨念は、その血涙によって予告されていたのである。

秦国に12年間幽閉された燕太子丹も、血涙を流したと伝えられる。長い軟禁生活の途中、太子は病気の母を見舞うために暇乞いをしたが、秦王政(前259-前210)は、「烏の頭白く馬角を生ずれば」、と冷笑したという。[73] これを聞いた太子丹は血涙を流し、頭の白い烏と角の生えた馬の到来を天に祈った。やがて脱出に成功した太子丹は、秦王への復讐を企てた。太子の血涙は、彼の深い恨みを表象し、のちに自分を幽閉せしめた宿敵への逆襲として実体化するものである。また別の逸話では、平六道の従者である斎藤五と斎藤六も、主人の処刑に同行する際に血涙を流したとされる。彼らもまた、敗者である平家一族を、容赦なく根絶やしにしようとする新興勢力・源頼朝に、恨みと憤りを抱いていたのである。[74]

『平家物語』に描かれる流涙場面は、たいてい和解や後悔の念を表わすため、「血涙」のような憤りの表現は読者に強い印象を与える。例えば、平重盛・平重衡(1157-1185)・徳子は、罪を悔い、救いを求める前に、法悦の涙を流す。[75] この作品の最後でも、朝政の覇権者となった後白河法皇(1127-1192)自ら、平家に対する哀悼の涙を流すことで、憎悪に満ちた劇的な物語にカタルシスをもたらすのである。[76] 一方で、「血涙」は憤慨の最もたるものを表し、血穢や危険の象徴ではないものの、それと関連付けられる人物が抱く、強い政治的不満を表象する。つまり、『平家物語』における「血涙」という概念は、カタルシスとは逆に、社会・政治情勢への対抗心を反映するものなのである。

歪んだ徳を表すもの
『平家物語』に描かれる血の涙が、それを流す人物の深い恨みを明示する一方で、血で文字を書く行為は、社会的逸脱を表しており、それは、東アジアの血書の伝統からは乖離した表象である。写経を自ら行う(もしくは人を集めて写経させる)ことは、功徳を積む行為であるが、それを自分の指先の血で行えば、より価値のある布施だと考えられていた。中国でも、子どもが自分の血で写経を行うことは、親孝行の証とされた。[77] また、血書きの写経は、仏教的思想を物質的に体現化させる修行だと考えられていた。シャーロット・ユーバンクスが述べているように、血を以て写経することは、「人体の無常」という仏教の真理を、肉体の一部を使って、文字通り体現する行いなのである。[78] この考えをさらに推し進め、バーナード・フォーは、血の写経を「輸血」を通して成仏するための試み、つまり「不滅の経典としての身体」を作る行為だとしている。[79]

しかしながら、『平家物語』の登場人物が、自らの血で写経を行うのは、仏への帰依を表明するためではなく、憤怒に駆られて願を立てる場面に見られるのだ。例えば、徳子が懐妊中、京には天変地異などの不吉な予兆が多く見られたため、清盛は故・崇徳上皇に急遽新たな諡名を捧げた。政敵への深い恨みを抱きつつ没した崇徳上皇の霊は、死後20年が経過しても、朝廷を恐怖に陥れたのである。吉田経房(1143-1200)の日記『吉記』によれば、政治的に恵まれなかった崇徳院は現世への呪いをこめて写経を行ったと言う。[80] 『吉記』以外に、崇徳院の呪いについての記録はなく、おそらくこれは吉田が想像しつつ書いたことである。[81] しかしながら、この逸話は中世の軍記物語の定番となり、しかも崇徳院が自らの血で呪詛のメッセージを書くという演出が加わり、血の写経が、仏への帰依や親孝行の象徴から恐ろしい呪いの手段に転換されたのである。

崇徳院は、1156年、保元の乱で弟の後白河天皇に敗れ、讃岐に流され、配流先で崩御した人物であるが、死後に怨霊となったことも知られる。延慶本によると、院は軟禁生活を強いられた三年間、大乗仏教の五大経典を写すことで往生を祈願した。しかし、書写した経典を京都の寺院に奉納しようとした際に、これを断られたため、激高したという:

これに依つて、新院、深く思食されけるは、「我勅の責め遁れ難くして、既に断罪の法に伏す。今に於いては恩謝を蒙るべきの由、強ちに望み申すと雖も、許容無きの上は不慮の行業になして、彼の讎を報ひむ」と思食して、御経を御前に積み置きて、御舌のさきをくひきらせ給ひて、其の血を以て軸の本毎に御誓状をあそばしける。「吾れ此の五部の大乗経を三悪道に投げ籠めて、此の大善根の力を以て日本国を滅ぼす大魔縁とならむ。天衆地類必ず力を合はせ給へ」と誓はせ給ひて、海底に入れさせ給ひにけり。怖しくこそ聞こえし。[82]

血での写経は中国でも日本でも、功徳を積む修行として根付いていたため、この場面をどう解釈するかは、研究者の間でも意見が分かれるところである。一方で、中村康夫は、崇徳院の高揚した精神状態を表現しているに過ぎないと解釈する。[83] 他方で、荻野三七彦は、院が最初は真摯に写経を始めたものの、激高した際に、血文字の呪いを書き添え、徳を積むための行為である血の写経の意味を転換したのだと指摘する。[84] 指先ではなく舌先から流れた血で書かれた呪いは、さらなる予言の重みを内包したのである。[85]

『平家物語』には、血を墨の代わりにするだけではなく、絵具の代用にする場面も出てくる。それは一部を血で描いた曼荼羅図であり、高野山の金剛峯寺には、この複製が今も飾られているという。『平家物語』によると、清盛が高野山の大塔を再建した時、僧形の不思議な人物(空海[774-835]の権化)が現れ、清盛と平家一門が再建の功徳として、近い将来、多大な権力を握ることを予言したという。この吉兆を受けて、清盛は高野山の金堂に飾るため、一対の曼荼羅図を作らせた。西の曼荼羅は常明法印に描かせたが、東の曼荼羅は清盛自身が手掛け、しかも、大日如来の冠は、自らの頭の血を用いて描いたのだという。[86] 覚一本では、清盛の意図は、自分の肉体の一部を使って、この「娑婆世界」を記録するためだと説明されているが、延慶本では、平氏の栄華が一代限りという予言に応え、清盛は自分の頭部を傷つけるという犠牲を払い、一族の為に滅罪を試みたとされる。[87] 清盛の血は一見真摯な寄進であり、実際、後に高野山を訪れた人々は、清盛の信心深さに感服したとされる。例えば、『太平記』は、光厳上皇が高野山へ御幸をした際、この曼荼羅を目にし、「さしも積悪の浄海、何(いか)なる宿善催して、かかる大善根を修したりけん」と感嘆したとする。[88]

しかし、崇徳院の場合と同様、『平家物語』の多くの異本では、清盛が自らの血を以て曼荼羅図を描くことの宗教的な意義を歪曲している様を、それが「脳(なづき)の血」であったという表現で示唆している。[89] 『平家物語』の中で、清盛の他にこのような劇的な行動に出た人物は、天台宗僧侶の恵亮(802-860)だけである。彼は、自分の後見者である惟仁親王(後の清和天皇;850-881)の皇位継承祈願のために、金剛杵で自らの脳(なづき)を突き砕き、護摩に焚いたという。[90]  『法華経』の薬師如来が焼身することで、捨身という究極の仏の教えを体現したことに倣い、恵亮は自らの身体の一部を寄進したのである。[91] しかしながら、恵亮と清盛の行為は、あくまで政治的な権力欲に駆られた結果であり、真の意味での自己犠牲によるものでない。[92]自らの指を嚙みちぎり、その血で衣の袖に曼荼羅図(後に「九曜ノ曼荼羅」として知られる)描いた聖・一行上人(683-727)とは異なり、清盛のそれは、自分と平家一門のさらなる繁栄のための布施であった。

しかしながら、『平家物語』によれば、崇徳院も清盛も、通常の血書のような指先を針で突く方法ではなく、より苦痛を感じるようなやり方(舌先を噛み切る・頭部に切り傷をつける)を選択したのは確かだ。16世紀の中国では蕅益(ぐうえき)(1599-1655)のような僧侶が、舌に針を刺して採取した血と墨を混ぜて写経を行なったと伝えられる。ジミー・ユーが述べているように、蕅益にとって、血書は「苦痛を基調にした、能動的行為」であり、このような苦痛を自らに強いることにより、彼は自己を身体から解放しえたことを表明した、その上、当時の社会に見られた道徳的頽廃と精神的荒廃の危機を、厳しく批判することができる立場を獲得した。それに対して、舌を噛んだり、脳から血をとり出すという邪道な方法を採用した場合、それは身を以て真摯な意図を証明するための行為ではなくなり、社会的逸脱や極端な自己顕示欲の表れにもなるのだ。[93]

『平家物語』における血は、社会的なさまざまな制度の境界線を表象するものである。このテクストの中で、台風や地震が災厄の前兆であるのと同様に、血は、逸脱・反抗・権力剥奪を表す象徴体系に属するものである。かくしてゼロ記号としての血は、その存在が当然予想される戦場において、存在を敢えて言及しないことにより、肉体的な死を不可視化するのだ。しかし、静寂によって何かの存在を示唆するゼロ記号は、その静寂が破られた際に、逸脱を刻印するのだ。逸脱者には、逸脱者のまま最期を迎える者(崇徳院・清盛・俊寛など)と、救済の余地が与えられる者(行家・維盛・六代など)に分かれる。この後者のように、反体制勢力の一部を人間的に描き、成仏の可能性をにおわせることで、『平家物語』はその救済的な目的を果たし、すべての政敵を非情冷酷に罰して世の非難を浴びてしまわないよう、頼朝を擁護しているようでもある。

結論

軍記物語における血の表象、しかもゼロ記号としての血、に注目する意義とは何か。まず第一に、『平家物語』に描かれる血は、その一般的な表象―勝者を正当化したり、勇敢な兵士を讃えたりする装置―から切り離されなくてはいけない。そして、穢れをもたらすもの、特定の登場人物を政治的に逸脱した人物として表象する装置として捉えなおさなくてはいけない。そうすることにより、我々は、暴力の結果現れるものとしての血を、再解釈することになるのだ。『平家物語』の戦闘場面が概して婉曲的であるという事実は、読者や語りの観客への啓蒙に関連して解釈され、「適度な」攻撃の模範を示していると称賛されたり、戦の残酷さを曖昧にしているとして批判されたりしてきた。[94] しかし、血が当然あるべきところに描かれないという修辞は、教訓的というよりは、宗教的または文学的な選択として解釈されるべきである。穢れのために死の場面から排除された血は、ゼロ記号となり、穢れ以外の逸脱を浮き彫りにするマーカーとして活用されることになったのである。『平家物語』における血の政治性は、このように、その不在によって一部の政敵の死を浄化し、その存在によって、別の政敵の人間性を批判するという形で表れてくる。また、興味深いことに、この作品が、頼朝自身の罪過を扱う場合は、別の人物に転嫁されたり、別の人物の行為によって滅罪されたりするのだ。

流血がほとんど描かれない軍記物語、という奇妙な現象は、血という非常にありふれた記号が、テクストの中でどのように作用するかについて、われわれに考え直しを迫るものだ。ギル・アニジャーが指摘するように、我々は、流血が究極の権力行使の表象であることを当然視してきた。また、アニジャーによれば、西洋思想は「法的権利のある個人」を「血肉を持つ個人」と同一視する傾向にあり、血を社会的・政治的生活のあらゆる領域に浸透する、普遍的な政治的概念だと看做しているのだ。しかし、そのような西洋における血の普遍性というものは、特殊な歴史的変遷の中から生じたものである。例えば、中世ヨーロッパの貴族にとって極めて重要であった血と「正統性」および「血統」との関連は、帝国主義の高揚と共に、人種差別論と「排除の政治」に転換され、身分としての血の重要性をさらに高めることとなった。また、キリスト教会は、伝統的に流血沙汰を禁忌する傾向にあったが、、11 世紀に教皇ウルバヌス 2 世とクレルヴォーのベルナルドゥスの新しい教義解釈により、キリスト教信者を傷つけ、その血を流させる行為は、キリスト自身の血を流させることだ、という発想の転換が起き、それ以降、「神の敵」に対する戦争が正義の戦争として容認されるようになったのである。このような、血に関わる語彙論を、注意深く歴史的文脈に沿って分析していくと、いかに血というものが西洋における統治・共同体・権力の指標として機能してきてきたのかを、理解することができるのである。[95]

しかしながら、西洋の場合と異なり、近世以前に作られた日本のテクストは、穢れとの関連のため、血液は身分や権力の比喩とはならなかった。中世の医学書には血液が言及されているが、史料や文学テクストでは、血は憚られる。文学作品の中で血が表象される場合は、生物学的な体液としてではなく、非常に強い感情の表出(血涙)か肉体的な犠牲(血書)であるのが慣例であった。それに対し、『平家物語』は、そのような肯定的な血の表象を退け、血の涙や血で書かれた(描かれた)文書・絵図を、権力者の正統性や一門の栄華などに影を落とす装置として活用するのだ。そのような文脈では、血涙は体制への強い憤り、血書・血画は逸脱の象徴なのである。言い換えれば、『平家物語』における血という概念の表象は、必ずしも一貫していないものの、負の意味を内包しているという点では、ほぼ一致していると言える。

 


[1] 本稿は Selinger, Vyjayanthi. “War Without Blood? The Literary Uses of a Taboo Fluid in Heike Monogatari.” Monumenta Nipponica 74, no. 1 (2019): 33–57の日本語訳である。

[2] 『平家物語』の原型はおそらく13世紀に遡るが、テクストは散逸しており、現存する諸本とは隔たりがあるものだと考えられている。研究者は百余の系統に分類される諸本のうちのいくつかに焦点を絞って論考を立てるのが通例になっており、本稿も、14世紀に成立した覚一本と延慶本を分析対象とする。

[3] McCullough, Tale of the Heike, p. 312; 『平家物語』, 第2巻, p. 212。

[4] 小西甚一によれば、覚一本では9回、屋代本では4回である。小西「平家物語の原体」, pp. 77-78。

[5] 坂井「血の叙述」, pp. 531-33; Konishi, History of Japanese Literature, p. 341.

[6] 参考までに日本古典文学大系本文データベースの簡易検索で調べると、戦闘場面であるか否かに関わらず、「血」という語が現れる回数は、『保元物語・平治物語』11回、『曽我物語』 (14世紀半ば)5回、『義経記』 (15世紀初期) 20回である。最多は『太平記』の94回で、『平家物語』よりも戦死・切腹の描写が生々しい傾向にある。

[7] Konishi, History of Japanese Literature, p. 342.

[8] 坂井「血の叙述」, p. 537; 佐倉『軍記物語の機構』, p. 283-84。

[9] Scarry, Body in Pain, p. 62. スケアリーの主眼は身体的苦痛を政治利用する社会構造にあり、戦争は敗者に与えられた身体的苦痛そのものの責任を負わずに、敗者が苦痛を与えられる所以を主張できる制度であるとする (p. 139)。また、スケアリーは、このような社会構造に抵抗するための手段として、苦痛の客体化を回避するために、人々が公の場で痛みを訴えることを挙げている (p. 5)。

[10] Williams, Deformed Discourse, p. 16.

[11] Ohnuki-Tierney, “Power of Absence,” p. 71. エミコ・オオヌキ・ティアニーはヤハウェ(神の名)や卑語を口にするというタブーなどを例として挙げている。ある言葉を忌避することは、その禁句を口に出すという逸脱行為の衝撃を増幅させるのである。

[12] Foucault, History of Sexuality, p. 147.

[13] Douglas, Purity and Danger, p. 114.

[14] 出産・月経に関わる血穢の研究は以下を参照のこと: Shimazaki, “End of the ‘World’”; Glassman, “At the Crossroads of Birth and Death”; Faure, Power of Denial.

[15] 西田『「血」の思想』, p. 83, 33-35。江戸時代以前は、親子関係は父親の「骨」と母親の「肉」から子に伝わる「気」によって形成されると考えられていたという。例外は「血脈」という語であり、宗教や文芸の世界で、師から弟子へと教えが継承される様を指す表現である。ウィリアム・ボディフォードが指摘するように、禅宗の慣習では、受戒した僧は、仏と朱墨の線で繋がる「血脈図」を授かる。Bodiford, Sōtō Zen in Medieval Japan, p. 214.

[16] 典型的な例は、大和が土蜘蛛と呼ばれる朝敵を倒した時の『日本書紀』の記述である(「時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也」)。中村「血」, p. 77。

[17] 日本の穢れ観については、多くの先行研究があり、特に、穢れ観の歴史的な変容に関する論争は枚挙にいとまがない。穢れへの対処法の概略は山本『穢と大祓』, p. 14-39参照。文化人類学分野での血穢観は宮田「血穢とケガレ」を参照。

[18] 浄瑠璃や歌舞伎など、近世に成立した文芸には流血描写が非常に多く見られる。浅野「血汐と文芸」参照。

[19] 鎌倉遺文 6385 「中原師光勘文」寛元 2 (1244), 10.10; 坂井「血の叙述」, p. 538。

[20] 坂井によれば、鎌倉遺文に所収されている652の罪状記録文書のうち、約四分の一にあたる154の文書に血という語が使用されているものの、その多くは仏道への帰依を大袈裟に表現する修辞であり、流血が言及されている数少ないケースは、すべて神聖な空間で起きた血穢に関わるものであるという。坂井「血の叙述」, p. 537。

[21] 『玉葉』 建久 9 (1198).1.11 (第3巻, pp. 933-34); 治承 2 (1178).11.7 (第2巻, p. 208)。

[22] 『今昔』 28:41 (第5巻, p. 124)。

[23] 『応仁記』, p. 88。

[24] 坂井「血の叙述」, p. 542。坂井によると、『十訓抄』(1252)には、八幡菩薩が正直な人の頭に宿ることを誓うという説話が所収されているという。このような迷信は、文学テクストによって当時広く普及しており、頭部の神聖さを象徴するものである。

[25] 延慶本『平家物語』は慣例として1309年成立とされているが、現存する写本は応永時代にあたる1419-1420年に制作されたものである。櫻井陽子によれば、この応永時代に制作された延慶本の写しは、写字生の手による独特の「編集」―延慶本以外の異本(覚一本など)の本文を部分的に取り入れるなど―が行われた可能性がある。櫻井「平家物語の書写活動」参照。本稿で引用されている延慶本は、五島美術館所蔵の大東急記念文庫版である。

[26] 兵藤『王権と物語』, p. 32。

[27] 『平家物語』の鎮魂機能には、死者の代弁者としての語りと擁護者としての語りが存在する。佐伯「『平家物語』の鎮魂」 (p. 12) 参照。

[28] 兵藤『平家物語の歴史と芸能』, p. 174-86; 兵藤『王権と物語』, pp. 48-50。

[29] Stone, Right Thoughts at the Last Moment, pp. 319–22. ストーンが指摘するように、すべての軍記物語には、熱心に念仏を唱えながら模範的な最期を迎える武士が描かれているのだが、『平家物語』が死を往生の契機としてとらえようとする姿勢は、他の軍記物語とは一線を画すものである。

[30] McCullough, Tale of the Heike, p. 314; 『平家物語』, 第2巻, p. 216。

[31] Stone, Right Thoughts at the Last Moment, pp. 83, 4.

[32] 当該場面は延慶本の第2巻(p. 260)を参照。

[33] McCullough, Tale of the Heike, pp. 311, 314, 318; 『平家物語』, 第 2巻, pp. 210, 216, 223。

[34] 佐倉『軍記物語の機構』, p. 278.

[35] 今井は源(木曽)義仲(1154-1184)の乳母子である。義経率いる大軍を前に、今井は、自分が敵の前進を喰いとめている間に松林に入って自害するよう、義仲を説得する。しかし、義仲は切腹を果たす前に敵に斬られてしまう。主の死を知った今井は、勇気と忠義を誇示するべく、敵の眼前で刀を口に咥え、頭から落馬して見せる。McCullough, Tale of the Heike, p. 293; 『平家物語』, 第2巻, p. 181。

[36] 覚一本よりも長い本文を持つ延慶本では、24回現れる「血」という語のうち、合戦に関わるものは僅か三例に過ぎない。

[37] 『平家物語』, 第2巻, p. 74。

[38] Scarry, Body in Pain, p. 71.

[39] McCullough, Tale of the Heike, p. 381; 『平家物語』第2巻, p. 342。

[40] 佐倉『軍記物語の機構』, pp. 283–84。佐倉は、延慶本もこれらの場面を美的に昇華することによりカオスを鎮静させているものの、単に赤い色を描写するだけでなく、「血」という語を使用していることを指摘している。

[41] Scarry, Body in Pain, p. 72.

[42] 『保元物語』, p. 120.

[43] 九条家本による。普及版『平治物語』は、ここまで生々しい表現ではない。

[44] 佐倉「中世軍記物語における身体と表現機構」, p. 127.

[45] Tonomura, “Revealing the Manly Worth.”

[46] McCullough, Taiheiki, p. 269; 『太平記』, 第1巻, p. 313。

[47] McCullough, Taiheiki, p. 284; 『太平記』, 第1巻, p. 330。

[48] McCullough, Taiheiki, p. 263; 『太平記』, 第1巻, p. 304。

[49] 本稿では血の視覚表象は扱わないが、中世日本で制作された合戦絵巻は流血を盛んに描写している。例えば、『後三年合戦絵巻』(1347)は、源義家(1039-1106)を誹謗した藤原千任(?-?)の舌斬りを生々しく描写し、『酒吞童子絵巻』なども、同様に残酷な死の場面を描く傾向にある。しかし、『酒吞童子絵巻』は、肉体の恐ろしさを教化する目的のもとに制作されたとの指摘もある(Kimbrough, “Sacred Charnel Visions”)。『金瘡療治鈔』(1357頃)などの医学書は当然血液に言及しており、特に戦が激化した14世紀に顕著な傾向である(Goble, Confluences of Medicine in Medieval Japan, pp. 89–112)。しかしながら、本稿が主題としているように、文学テキストにおける体液としての血の描写は決して多くない。

[50] 池見『中世の精神世界』, p. 146。

[51] 益田「飢えたる戦士」, p. 262。

[52] 宮廷文学が、現実的な肉体よりも、社会的に構築された身体を表象する傾向にある、という論はPandeyのPerfumed Sleeves and Tangled Hairを参照。

[53] 『延慶本平家物語全注釈』(第4巻, p. 566)によれば、鮮血の主はこの直前に戦死した行忠という、あまり史料の残っていない人物であるという。また、他の生首に付着した乾いた血の主は、行忠よりもずっと以前に死んだ、鹿ケ谷の密議の首謀者の一人、藤原成親(1138-1177)であるらしい。つまり、これらの生首は、清盛の専制政治のために命を失った人物を表象している。

[54] Bialock, Eccentric Spaces, p. 316.

[55] 『大鏡』, pp. 274-75。

[56] 同様の見解は勝倉『大鏡の史的空間』, pp. 337-39にも見られる。花山帝の奇人としての評判を描く逸話は『大鏡』(p. 147)参照。

[57] 『延慶本』, 第1巻, p. 210。覚一本での表現ははるかに婉曲的である。

[58] 『延慶本』, 第2巻, p. 321。

[59] 坂井「血の叙述」, p. 548。中世日本において、父と息子の関係性は社会秩序の核を成すものであった。武家では父から息子へと土地が継承されるため、その繋がりが理想化され、その結果、中世の軍記物語の中で父子関係が特に重視されるのだという。また、息子にとって、父の亡骸ほど重みのある概念はなく、武家の土地譲渡状には「死骸敵対」(遺言に背く不孝)を行わないよう、厳格な戒めが記載されることもある。勝俣「死骸概念について」参照。

[60] McCullough, Tale of the Heike, p. 183. 頼朝が源平合戦を蜂起したのは1180年だが、保元の乱で、父・義朝(1123-1160)が、自分の父(頼朝の祖父)である為義(1096-1156)を処刑するまでに至る前に挙兵しなかったことを悔やんでいたという。

[61] 乳母が養い君と血穢を分かち合うという点については、『延慶本平家物語全注釈』(第2巻, p. 164)参照。平安時代の貴族女性は、権力の再生産としての出産を引き受け、実際の育児は乳母に一任する。木村『乳房はだれのものか』(p. 38)参照。トーマス・コンランがその論考の中で注目する乳母一家と皇族・権門との政治的癒着とは異なり、『平家物語』における乳母と養い君の関係性は擬制母子の愛着を強調する。Conlan, “Thicker than Blood”参照。

[62] 『延慶本』, 第2巻, p. 486。

[63] McCullough, Tale of the Heike, p. 71; 『平家物語』, 第1巻, p. 165。

[64] 軍記物語以外のジャンルで赤ん坊を「血の中より」とりあげるという表現は、室町時代物語の「七草ひめ」であり、やはりこれも乳母の発言であると思われる(p. 197)。私信のような歴史的文書でも「従産穢内迎取養育」という、育ての親と養い子の関係を穢れという絆を通して表現する場合があるが、血を直接的に表現はしていない(片岡「従産穢内迎取養育」, p. 38)。また、文学作品には、寡婦が夫の成仏を祈願しつつ余生を過ごすことを要請する家父長制的なメッセージが散見されるが、これは乳母が養い君に先立たれた場合も同じである(田中「女性史の視点から見た『平家物語』」, p. 101)。

[65] 血穢を共有した者同士が、社会的に擬制家族とみなされるという論に関しては、加藤『日本中世の母性と穢れ観』(p. 165-69, 209-16)参照。

[66] 柳田「『平家物語』と食べること」, p. 40。

[67] この逸話の日本文学作品への引用に関しては、宮田尚「卞和が “血の涙”」を参照。日本文学に「血涙」概念を広めたのはこの『韓非子』のエピソードであるが、中国の文献で最も早く「血涙」という語が現れたのは『詩経』(前10世紀-前3世紀)であり、『韓非子』と同様、政治的文脈で使われている。

[68] 『長恨歌』の中で、玄宗(685-762)は、最愛の妻・楊貴妃(719-756)が皇帝自身の部下の手で殺害された際、血涙を流す(「君王掩面救不得,回看血泪相和流」)。古典中国語では、「血涙」は男性の嘆きと政治的な反抗心を表し、「紅涙」は、女性が美のはかなさに対して流す涙を表す傾向がある。于永梅「平安時代の漢詩文」; 菊池「平安朝の和歌に見える血涙」(p. 44)参照。

[69] 素性法師「血の涙/落ちてぞたぎつ/白川は/君が世までの/名にこそありけれ」(古今集 830)。

[70] 『源氏物語』には流涙場面が386あるが、「紅の涙」が使われるのはたったの二度だけである。今関『涙の文化学』(p. 262)参照。

[71] 中村「血」, p. 99。

[72] 『延慶本』, 第1巻, pp. 176, 241。覚一本の同場面では、「血涙」の表現は使われていない。

[73] McCullough, Tale of the Heike, p. 175; 『平家物語』, 第1巻, p. 348。

[74] McCullough, Tale of the Heike, p. 414; 『平家物語』, 第2巻, p. 403。

[75] McCullough, Tale of the Heike, pp. 118, 398, 434; 『平家物語』, 第1巻, p. 246; 第2巻, pp. 373, 435。

[76] McCullough, Tale of the Heike, p. 436; 『平家物語』, 第2巻, p. 440。『平家物語』における鎮魂とカタルシスの機能については、源「平家物語」参照。

[77] Kieschnick, “Blood Writing in Chinese Buddhism,” p. 182.

[78] Eubanks, Miracles of Book and Body, pp. 118–19.

[79] Faure, Rhetoric of Immediacy, p. 138.

[80] 『吉記』, 寿永 2 (1183).7.16。荻野「古文書に現れた血の慣習」, p. 199。

[81] 山田『崇徳院怨霊の研究』, pp. 85-106。

[82] 『延慶本』, 巻1, p. 207。この逸話はもともと『保元物語』に所収された逸話を基にしている。

[83] 中村「血」, p. 109。

[84] 荻野「古文書に現れた血の慣習」, p. 200。

[85] 鳩摩羅什の「舌不焼」伝説にも見られるように、仏教の予言において、舌は重要な役割を果たす(柴田「舌にまつわる話」, p. 355)。

[86] 『平治物語』, 巻1, p. 224。ここで東と西の曼荼羅図と呼ばれているものは、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅をそれぞれ指すと思われる。

[87] 『延慶本』, 巻1, p. 338。山崎「清盛血曼荼羅奉納伝承(p. 35)参照。

[88] 『太平記』, 第3巻, p. 461。

[89] 『長門本:平家物語の総合研究』, p. 395。

[90] 『平家物語』, 第2巻, p. 126。

[91] Ohnuma, “Gift of the Body,” p. 324.

[92] 『今昔物語集』, 第5巻11話「五百人商人通山餓水語」は、釈迦の生まれ変わりである僧が、渇水した旅の商人たちを助けるため、自らの頭を巌にうちつけ、流れ出た水を与えるという話である。このような真摯な自己犠牲の逸話が、やがて密教儀式に取り入れられるのである。

[93] 『平家物語』, 第1巻, p. 149; 『延慶本』, 第1巻, p. 120。

[94] Jimmy Yu, Sanctity and Self-Inflicted Violence, pp. 51, 40.

[95] 史学者のモーテン・オクセンボエルは、『平家物語』における控えめな暴力表現が、貴族的武士にとっての模範的行動を提示しているとする。それに対し、大津雄一はこの作品が、恐ろしい戦の現実を否定していると批判的に述べている。Oxenboell, “Epistemologies of Violence,” pp. 45, 58; 大津「軍記と暴力」, p. 68。